2016年5月25日水曜日

あの日常と新しい日常




「こんなときだからこそ文章を書かなくっちゃ」といつも思うのだけど、やはりどうも、筆が進まない。そりゃまぁ当たり前ですよね。書かなくてはいけない、なんていうときほど、筆が進まないものはない。だから書いては途中で止め、書いては途中で止め、の繰り返しということになるわけで。

というか何度書いても、どこかの誰かを知らぬうちに踏みにじってしまっている気がするし、しかもこんなときに何を書いてもどうしても何か人生訓めいたものになってしまうから、ほんとにいやになる。まぁ前者はいつものことかもしれないけど、後者は自分にはどうも我慢ならない。なんかそれこそ世にインターネットが出て来たすぐ、誰が読むわけでもないのに皆がそぞろ書き始めたあのアイデンティティ丸出し日記のような感じである。おれがおれが、わたしがわたしが、というやつ。でも何度書いてもどうしてもそうなってしまうので、それを承知で書こうと思う。


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現在でも建物の精査のせいで店を開けれずに、どこかで行う展示場所を探しながら(こちらの方は少しずつ進んでいる)、一方で昔の職場の同僚達からライターの仕事をいただいたりして(こないだは無農薬にんにくと無農薬バナナの取材をして原稿を書いた。久々楽しかった)、あれやこれや日々を過ごしている。あの地震が起こって一ヶ月以上。もしかしたら同じように感じているひともいるかもしれないが、なんだかふうわふうわした感じだ。現実と非現実の狭間(なんだか大好きなラッパーSlackのリリックみたいだ)。ほら、映画館から出たすぐ、目の前の現実に馴染めないあのふうわふうわ感。あれに少し似ている。例えばいつものようにぼんやりとしながら物思いに耽りつつ時間を過ごしていると「・・・あれれ、もしかしたらあの地震は無かったことなんじゃないか」となぜか一瞬本気で思ってしまったり。そしてはっとして、現実に戻される。あれはいったいなんなんだろう。とても不思議な感覚だ。

そんなふうわふうわしたなかで自分がずっと考えていること。同じように繰り返されるフレーズ。ことば。ひとまず確かに言えると思うのは、結局のところ、震災前のそれぞれの日常こそがある意味すべてだったのではないか、ということ。これは決して後ろ向きな話ではなくて、何度考えてもそう思う。そう思えて仕方ない。

「日常を取り戻そう」。そんなフレーズがいたるところで使われている。その気持ちはもちろん僕にもよく分かる。この痛々しい状況に負けない、あくまで前向きなその気持ち。そしてあくまで物事の良い面を見ようとすること。それは十二分に分かるし、ある部分では正しい事なのだと思う。でも正直いって、首を傾げてしまう面もある。だって、もしその日常というのが、震災前のあの日常を指しているのならば、それはとてもじゃないけど難しい話なのではないか、と思うから。それくらいに今回の地震は大きかったし、えぐられた傷跡は本当に本当に深くて痛々しい。それぞれに受けた被害の大小はあれど、起こった事実は皆同じように降りかかるはずなので、たぶんその影響はこれからどんなひとにも少しずつ響いてくるはずだ。たぶんどんな店であろうと、少なくともその影響から逃れられないはずである(店によってはGWの状況だってかなり厳しい面があったと聞いた)。そんな光景はもうすでにして、あの日常ではまったくない。あの日常なわけがない。

でもそうだからこそ、もはや変わってしまった日常だからこそ、これまでの日々の日常が生きてくるんじゃないか、と僕は思っている。例えば、必要とされるひと、必要とされる店。自分にとって本当に必要なひと、本当に必要な店。たぶんそのすべては、あまりに平和だったあの日常においては、見えなくなってしまっていたかもしれない。でもこんなときだからこそ、それがはっきりするのではないかと思うのだ。果たしてそれがいいことなのかどうか、それは僕には分からないのだけれど。

でもひとつだけ言えるのは、それがただの当たり前の動かない現実である、ということだ。そして本当に必要とされるということは、そのひとや店がそれだけ大きくて大切なのものを、どこかの誰かのために、あの日常において日々費やしていたからに他ならない。もう帰って来ることの無いあの日々の日常において、そこに対して毎日切磋琢磨していたひとや店こそ、本当の意味でたったいま必要とされている気がして仕方ない。きっと必要とされていたひとや店は、こんなときだからこそ、もっと必要とされるのだ。そして何人たりとも、時間はもう元には戻せない。そういう意味では、もう取り返しがつかないのだ、というのもしっかりとした現実だと思うし、そこから見えてくることだって、いやそこからしか見えない大切なことだって、たくさんあると思うのです。そんな暗くて厳しい話はもちろんあんまりみんなしたがらないけど。

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・・・ああ、読み返しても本当につまらない文章だ。どこにも色気というものが見当たらない。でも考えれば考えるほど当たり前のことではあるのだけど、現実というのは、ある意味こんなにも冷たく、こんなにもつまらなく、こんなにもグロテスクである。もしかしたらこの文章こそは、そんな現実をまんま映し出すものなのかもしれない。そして自分は、自分の店は、どこまで本当にひとに必要とされているのか。自分には相変わらずそこが分からないし、自信がない。でもそれも徐々に明らかになっていくことだろう。それにしても、いま果たして同じような想いを抱いているひとはどれくらいいるのだろう?


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もうひとつだけ言えること。それはこんなときだからこそ、ひとはくっきり暴かれるのだということ。もはや暴かれてしまったのだということ。震災直後にそれぞれがとった行動や言動にそのすべてが出てしまった。もちろん、それは僕だってそうだ。ここまで巨大なアクシデントだと、そのひとの立ち位置や考え方のようなものが良くも悪くもはっきりとしてしまう。そのそれぞれの様子こそ、これまた忘れられないほどにある意味グロテスクであり、あの時SNSを閉じたくなったひとも本当に多いはずだ。少なくとも僕はそうだった。でもそれもまた仕方の無いことだし、きっとそれがさまざまなひとが渦めくこの世の縮図ということなのだろうし、そんな世の中でひとそれぞれがそれぞれの在り方でやっていくしか方は無いということも、これではっきりした気がする。

そして結果的に。もうあの日常が元に戻らないというのならば、じゃあ果たして僕らはこれからどうすればいいのだろう? きっとそれはもうどうしようもなく分かりやすい話だ。そう、新しい日常を始めればいい。あの日常で出来なかったあれこれ、届かなかった想い、至らなかった日々の仕事、そのすべてを自分のペースでひとつひとつ新しい日常で積み上げていくしかない。もしそれがまだどうにもならないスタートであっても、数ミリしか物事が進まなくっても、それでも僕らは新しい日常を始めるしかないのだと思う。始めることができなくって、自分では新しい日常なんてぜんぜん始められないとただただその場所にうずくまっているひとであっても、それだって、きっと確かな新しい日常なのだ。もうあの日常を悔やんでも仕方が無いし、あの日常に戻ろうと思ってもそれは誰にも叶わない。だからこそ、新しい日常を始めなければいけない。だっていまこの目の前に見える景色は、これまでに誰も見たことのない景色なのだから。