2016年10月30日日曜日

旅するボシャルウィット

とまぁなんだかもう移転オープンしてすぐなのに、後ろめいた文章を記してしまったようなのだけれども、実はそうではなくって。その辺の話が今回展示会中のモロッコのラグ、ボシャルウィットに繋がればと思っている。



『旅するボシャルウィット』。10月21日から11月13日まで、途中11月3日から11月6日の『天草大陶磁器展』でのアマクサローネ出展を挟みつつ、昨年と同じように香川の『maroc』さんよりたくさんのモロッコのラグが届いている。ボシャルウィットを始め、最高級ウールのベニワレンなどいろんな種類のラグたち。








ボシャルウィットというのは古着をさいて編まれたラグで、モロッコのベルベル族の女性たちが紡ぐラグである。言葉をもたない彼女達はさまざまな絵柄に想い想いの気持ちを込めながら、設計図無しでラグを編んでいく。それぞれの柄には魔除けだとか昔っから伝わる意味があって、それをそのときそのときの気持ちで編んでいくのだろう。僕は実際モロッコに行ったことが無いので、その辺の話はもちろん請け売りなのだが、でも本物のボシャを間近で見るとなるほどと頷きたくなる。それほどこのラグは「なにか」を物語る、というか勝手に物語りたくなるラグなんですね。





なんというか、デザインや色の発想があまりに自由。大胆。例えばたまにどこぞの子どもが書いた純真無垢な絵なんだけど、だからこそ惹き寄せられるものがあったりしますよね。あれに近いのかもしれない。なかにはきっちり幾何学めいた柄もあったりするんだけど、端の方はまったく違う柄になってて、そこがかなりのアクセントになっていたり。特に香川の『maroc』さんの扱うボシャはいずれも新品じゃなく古めで、だからこそますます造り手のなにがしかの想いがしっかりと残っているように思える。昨年から「ボシャと子どもの相性は絶対いい」と言ってはばからない自分だけど、それこそ前回の話じゃないが子どもにはスマホいじらせるよか、ボシャのうえで遊んでいてもらいたいなぁと思う。少しでいいから、その自由なる柄や色合いに触れて喜んでもらいたいと思ってしまう。進歩に進歩を重ねて、ある意味もうこんな場所へはきっと戻れないと分かっているこんな国にいる自分だからこそ、そう強く思ったりするわけで。





「遠い遠いアトラス山脈の女性たちから届けられた、名も無き手紙のようなもの」。僕はボシャをそんな風に形容しながら、そして勝手に想像する。モロッコはベルベル族のどこかのある女性がある季節に、たまたまある想いを持ってラグを紡いでいる。実はあるひとはあるひとに恋をしていて、ちょっとだけ編む気持ちに、その柄に、ほのかな恋心を入れてしまったり。またあるひとはたまたま今日吹く風になぜかしら恐怖を感じてしまい、そのテクスチャーに不安みたいなものが垣間見えたり。またあるひとはただただいく日もいく日も無心にラグを編み続け、その無心こそがそっくり柄に現れてしまったり…。もちろんそんなストーリーは勝手な僕の想像なんだけど、でもあり得ない話ではないと思うし、想い想いが現れる手仕事だからこそ、そのバックグラウンドは計り知れないと思うのです。



学者じゃないのでその柄からは分かりっこ無いけど、でもそんな遠い遠い不思議な可能性が僕らの目の前にあるのがとても愉しい。そんな想いがモロッコから香川に行って、たったいまここ熊本の古いビルの3Fに在るのが奇跡的で面白い。そしてもし、今回の展示会で、そんなラグが巡り巡ってあなたの家に届いたとしたら。





2016年10月29日土曜日

白川沿いにて



にしても、いまや世は「バズ、バズ、バズ」ほんとにウルサくなったなぁと思う。みんながみんなバズりたくて仕方なくって、フックアップされたがっている。音楽の世界だって、このポップ後進国(らしい)ではあの宇多田ヒカルがまっとうなやり方でCDというフォーマットでストレートに素晴らしい傑作を世に出したけど、例えばアメリカであればフランク・オーシャンであれチャンス・ザ・ラッパーであれ、ツイッターやらをゲニラ的に使いながら、もう驚かせてなんぼというか、世をバズらせてなんぼというか、でもその在り方そのものがいち個人、いちアーティストが大手のレコード会社やら企業を痛快に蹴散らす模様になっていたりして、なるほどなぁそれはそれで今の時代の健全な在り方かもしれないなと思ったりする。

かくいう僕だって店の行く末を兼ねてその色気がないといえばウソになるし、別に公にバズりたかないが、自分がやっていることがもっと届いてほしいひとに早く届いて欲しいと願ってはいる(いまであればモロッコのラグ、ボシャルウィットに少しでも興味があるひとに届いてほしい)。考えてみるともう何よりここ数年で物の在り方がすっかり変わってしまった。そりゃもうきっとあの、この、魔法の箱、スマートフォンのせいだ。おかげだ。こないだ朝から久しぶりにきっかり一時間、時間が空いたので、どっかのコーヒーショップに入ったらば、自分と同じように朝の空いた時間を過ごすひとたちが数人居た。たぶん、おそらく朝のぼんやりをしに来たのだろうけど、みんながみんな、若いひとからおじさんまで、そしてもちろんこの僕まで魔法の箱をそそくさいじっていた。触れてしまっていた。店内に流れている音楽さえ誰も気に留めないだろうし、ぼんやり空(くう)をみつめてなにか物思いにふけることもない。なにしろ自分がそうなんだから、仕方ない。考えてみると僕らは本当に恐ろしいおもちゃを手に入れたもんだ。だって恐ろしいことに、もうすぐ三歳になる自分の息子でさえ、もうすでにしてこの魔法の箱の虜になっている。いまや、世のお父さんお母さんたちは子どもたちをあやし、なだめすかすのに、この魔法の箱が無いとどうにもならないひとだって多いと推測する。それだけは自分は阻止したいけれど。ともかくそんないくつかの事実に改めてふと気づいて「こりゃあすべてが変わってしまうはずだわ」と思った。目の前に流れているこの風景や時間にだって情報は溢れているのに、この小さな魔法の箱の情報を選んでしまうひとたち。僕たち。そこにたいした情報なんて在りもしないのに。

ここに告白すれば、最初っから個人的にどうもインスタとソリが合わない(だからといってフェイスブックとソリが合うかと言われると困るけど)。なにが合わないのか自分でもよくわからないが。タグって「ぎゃあかわいい!」ってなって「欲しい欲しい」ってなって即ポチ即ゴー、みたいなあのノリが合わないのか。なにかを薄っぺらく感じているのか。どうもなぜだかノートPCで大好きな映画を観る不具合、不機嫌度合いみたいなものを感じてしまう。うちの店は通販をやっていないようないるような、売れる時は売るみたいな、ちょっとキモチ悪い店だが、先日『つくし文具』のペンケースをインスタにポストしたらば、全国から問い合わせがくるわくるわ。そう、このペンケースはマツコさん辺りの番組でどうやらバズったらしいのだ。もちろんそのなかのほとんどのひとが、うちの店がどういう店なのかなんて見ちゃいない。欲しいものがそこに在るから欲しい、という。でもそれだって考えてみると自分だって同じ面もあって、ネットで欲しいものを買うとき、価格さえいちいち比べたりするけど、そこから深く掘ることはほとんどしない。まぁネットで買うってそういうことなんだもんな。それはまったく、ぜんぜん、間違っていない。魔法の箱を手に入れたひとたちの、なにはともあれ、まっとうな買い物状況である。

いつだって同じことを言っているようだけど、考えてみるにとにかく時間に猶予はない。昔だったら二年のタームで考えていたモノゴトがたぶん半分かそれ以上に早くって、即結果を残していかないと厳しくツラい状況になる。だからみんなしゃかりきになってバズろうとする。それはもう当然のことだ。そして若い子を見ていると、それはもう羨ましいくらいにそこに対して恥が無くて素晴らしいと感心する。僕なんかは「まぁ気づいてくれたら嬉しいけど、気づかなかったらしょうがないよな」なんてどっか恥ずかしく逃げてる面があるけど、彼らはそうじゃあない。このどっか薄暗いネットの世界でどん欲に我れ先へとセカイへ下界へアピールし、文字通りのし上がろうとする。生き残ろうとする。まぁそれも当たり前だろう。彼らの方が僕より、きっと暗いセカイを見続けて来たはずだから。より絶望という言葉を身近に感じているはずだろうから。僕から見ても例えば僕ら世代よりもっとバブルの恩恵を受けたであろう現在の50代の方とか、ひとによっては「ちょっとその考え方はあまりに楽観的にすぎやしないか」と思うフシもあったりするので、その辺は結局めぐりめぐって同じ面があるのかもしれない。そして結局のところ、そんな世代云々に関係なく、みんななんとかしてこの急で険しい崖にしがみついてやっていかねばならない。もちろんこの僕も。

・・・と、いつものようにこんなどうしようもないことをどこかにつらつら書き記していたら、たったいまインスタでタグってお客様が来てくれたりするので、なんだかもうやれやれ、である。


2016年10月24日月曜日

新しい場所

震災後、ようやく新店舗に移転することができた。今度の場所も前回の店と同じようにどちらかというと、街の中心地より。中心地からぼちぼち歩いて10~20分くらいで着くだろうか。といっても熊本の中心地だって広いから、なんとも言えないけども(詳しい場所的にいえば、白川公園の裏っかわになる。住所は熊本市中央区南千反畑1-5 満月ビル3F TELは096-288-3659)。



古い古い、なんと僕と同じトシの同じ月生まれのビルで、元は旅館だったらしい。そのビルの三階。二階にはかなりシャレてクールな洋服屋『Cull』さんが入っている。






震災後はTSUTAYA三年坂店の地下で展示会をさせていただたりしていたのだけども、やはりどうもそうやっているばかりにもいかないので、ぼちぼち店探しをすることになる。というか、僕らの場合は店探しだけでなくって、現在は実家から通っており、家探しも重ねてやっている状況だった。

で、驚いたのが、現在のこの熊本の住まい探し状況というのは、基本かなり厳しいんだということ。つまり、みんな物件を探しているのですね。大手の不動産情報をネットで見る→おっ、なかなかいいじゃん。でも実際見てないと分かんないよね、と、ひとまず電話する→ほとんどもう決まってしまってる。しかも驚くことに、結構みんな実際に部屋のなかを見ないで住むことを決めてる場合も多いようだ。まだ引っ越し先にひとが住んでいて中が見れなくても即決、みたいな。だから僕らのように悠長に構えている人間達にはほぼ行き渡らない。まぁ考えてみれば当たり前で、現在だって震災で住む所さえままならない方達も多い状況なので、そりゃイス取りゲームみたいになるよな、と。僕らは住居兼店舗も検討していたので、なおさらなかなか見つからない状況だった。

そんなある日のこと。奥さんがふと、「・・・そういえばどうもあなたの好きそうな感じのビルに募集の張り紙がしてあったよ」と言う。「・・・へ?張り紙?ネットぢゃなくって張り紙?今時、大丈夫かよ、それ」なんてぜんぜん自分自身、今時じゃないひとなくせに、今時ぶりつつ話を聞いてみたら。




「満月ビル」。そのビルの名前はそういうらしい。うん。素晴らしい。今時、素晴らしい。そして何より素晴らしかったのが、そのビルがある道。通り。そういえば以前から自分がなんとなく好きな、歩きたくなるような通りだったのだ、ここは。川沿い、街の中心地からちょいと離れた、どこかゆったりとしたひとたちが幸せそうに散歩しているような、その通り。素晴らしい。なぜか通り沿いにある汗臭いボクシングジム。これまた、素晴らしい。夕方、気づけばここらじゅうに響き渡る、分刻みハードワークな「カーン!」というゴング音も素晴らしい。いや、なんか素晴らしすぎる。



どうも昔っから、なんというか「ひととひと」と同じように「ひとと道」にも相性のようなものがある気がして仕方なかった。ほら、あるじゃないですか、なんかあの道好き、歩いててほっとする、みたいなやつ。ほんとは店やるんならやっぱそういう言葉になんない信頼、というか、言葉にならない気持ち、みたいなものが欲しいと思っていた。でも店のオープンなんざ実際はなかなかそんな乙女チックで絵空事なんざ言ってられないわけでしてね。でもまぁ僕もこう見えて、なんつってもバツ三。三年で移転三回目のトリプルアクセル。こりゃもうこの喜ばしき本能の震えに従おう(っていつもそうなんだけど)と思ったわけなんですね。

しかもこのご時世に、見つけたのがアナログチックにビルの張り紙というのがまたまた大きい。僕としては。実際不動産もほんとうに小さな不動産屋さんで、対応もすべからく丁寧でアナログで素晴らしかった。なかには売り手強しのこの状況で、ちょっとどうかと思う不動産もあるにはあった。いくら良い物件持っててもあんなひとたちには決して僕らのお金は渡したくはない。まぁそんな余裕かもしれないことを言えるのは、僕らの状況が本当に恵まれているのかもしれないけど、でもねぇ。そこをぐっっと飲んで契約するひともいるんだろうけど、でもねぇ。こういう手と手のやりとりというか、気持ちと気持ちのやり取りの中で生きていく、というチョイスこそ、そのひとそのひとの生き方をも左右する、ほんとに重大な決断だと僕は信じて疑わないわけで。というか、それが一番重要な決断なのではないかと。どこまで自分が譲れないものを死守するか、みたいな。たぶんそうやって自分たちが好ましいと思う状況が連鎖していくのだと思われる。そう思いたい。



とは言っても、一般的にみれば、きっとここは街の少し外れの、たぶんちょっとハズレなあまり知られてない場所。これから好ましい連鎖が続いていくのだろうか。続くといいな。続くと思うぞ。続かせなきゃな。続くことを祈ります。