2017年1月19日木曜日

仕込みの人生への祝福



今日、なんとなくお客様から「どうやったらば文章を書くことってできるのですかね」のような質問を受け、じつは僕はその答えを持たないのだけど、だからこそたぶんこうやってまたでたらめなる文章を重ねようとしているのだけど、でもそういえば最近ちょうど考えていたことがひとつ在ったな、と思い、そのお話をした。そのことはきっとうちの店が取り扱う、すべての創り手の方たちに通じることのような気が(勝手に)しているので、それを2017年最初の文章にしてしまおうと思う。

例えばそれがまっとうな飲食店であれば、それがどんな種類の飲食店であっても、彼・彼女たちはいつであっても「仕込みのこと」をあたまのどこかで考えているはずだ。たまの休みであっても、定休日であっても、あるいはたとえ正月であったって、あたまのどこか端っこの方に料理の仕込みのことがきっと在る。客や他人は当たり前にテーブルに並んだ華やかなる料理自体にスポットをあてがちだけども、でも料理とは7、8割が仕込みだ。つまり、料理人とは仕込みの人生であるといっていいだろう。

それと同じように言わせていただけるなら、自分にとって文章も同じ様なものだと思う。常にどこかであたまのなかで文章を書いている(仕込んでいる)。いつもどこかで文章を綴り、そのことを考えている。というか、考えてしまっている。自分のあたまのなかを割って他人に見せ比べられたら、たぶんちょっとおかしいんじゃないかなと思う。でもそれは仕方の無い、ある種、業のような、星周りのようなものだ。

そしてそれはきっと器を産み出すひとたちとて同じであって、きっと彼・彼女らはいつであっても自分の作品である器のこと、あるいはそれを創ることから逃れられないはずだ。休んでいる時であっても、必ずやあたまのどこかに作品のことがあって、考えていないようであっても考えている。つまりそれはもうすでに、そこで作品の仕込みが行われているといっていいのではないかと思う。つまりはまぁ彼・彼女らも仕込みの人生であると言ってもいいだろう。そして彼・彼女らも美しく煌びやかな作品ばかりが表だって取り上げられるが、普段は泥まみれになりながら作品を産み出している。あたまのなかの仕込みの段階から考えると、凄まじい時間が積み重なっているかもしれない。でもやっぱりあんまりそんな影の部分は語られることはない。そしてそれはなにも器だけじゃなくって、日々なんらかの作品を産み出そうとしているあくまで真摯なる創り手の人間全般にいえることだと思うのだ。

でも僕はここでただただ創り手が偉い、と言いたいわけじゃない。というか、そんな彼・彼女たちはなぜかわからないけれど、そういう道を選ぶしかなかったのだ。きっと。気がついてみたら、そんな仕込みの人生を選んでしまっていたのだ。たぶん。好むと好まないに関わらず。あるひとは銀行員になり、あるひとは教師になり、あるひとは料理をつくり、あるひとは器をつくる。そしてあるひとは文章を綴る。別にそこに偉い、偉くないとかは存在しない(いや、偉いとか考えている人間もなかにはいるのは知ってるけど、大抵そんなやつに限って大したことないのがこの世の常だ)。

そして僕はこの店において、そんな彼・彼女たちの希有で奇妙なる仕込みの人生を断じて祝福したいと考えている。いや、というか、そこに理解あるお客様という仲間たちと一緒に祝福したいと思っているのである。それがこのvertigoという店のコンセプトであり、願いであり、使命である。たぶんそれはいつになっても変わることはないだろう。何の因果かわからぬけども、彼・彼女たちはそんな仕込みの人生を選んでしまった。そしてこの瞬間たったいまでも彼・彼女たちは作品と呼ばれるべきなにものかを仕込んでいるに違いないのだ。だから、ほら。やっぱりここで祝福しようじゃないか。そう思うのです。

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