2018年1月16日火曜日

絶望と未来と



先日、子どもの誕生日を祝うためにお気に入りのお店に家族で行って食事をした。いつものように満足して、最期にデザートを頼もうとメニューを見たら、そのなかに「ヴィーガン」のためのメニューが記してあった。すべての素材にオーガニックにこだわるこの店にあって「そうか、さらにヴィーガンなのか」となんとなく思っていたらば、隣のテーブルにいた団体客のひとりから「・・・じつはわたし、ヴィーガンなんだけどね」という会話がたまたまのように聞こえて来た。別にいまどきヴィーガンのメニューが在るお店なんて珍しくはない。けれどもなんというかそのとき、最近ずうっと考え感じていた大きな物事がようやくひとつに繋がった気がした。

現在の世において、たまたまマイノリティとされるひとびとへの配慮や気配り、少なくとも自分のなかにそんなひとびとのためへの理解という席を空けておくこと。それこそこれから必ず必要となってくる価値観であるだろうと思う。というか、もはや世界においては刻一刻とその価値観が主になっていっているように自分には思えて仕方が無い。そのことは前回に書いた黒塗りでひとを笑わせることや女性を蹴って笑いを取ることと無関係ではないはずで、良くも悪くもガラパゴス化したこの国ではそのことがどうにも見えにくいし分かりにくい。だがしかし世界はどうやったってその方向に向かっているように僕には思える。

最近ハリウッド映画でアジア人が決まってキャストされるのもそれと無関係ではないだろうし、もちろんそれはかの中国という国の現在の力を示すものではあるだろうけど、でもいずれにしろマイノリティであった存在が表面に浮かび上がってきているのは事実だろうと思う。ハリウッドのセクハラスキャンダルなんていうのもそのひとつの例と言っていいかもしれない。声なき声の主張、というか。ジェンダーの問題も同じく。男性でも女性でもない、これまでとは違う立ち位置のひとびとがそれぞれ声をあげる。いわばこれまではクラスの端っこでその存在を明かさなかった(明かせなかった)ひとたちがその権利と自由を求めて声をあげる。これまではそんな声を息がクサいおっさんの父性めいた力でただただねじ伏せていたのに、そこにきちんと理解をして席を与えて考えを分かち合う。そのこと自体、僕には至極当然の流れのように思える。

でも残念ながらなかなかその考えはシェアされることがないようだ。特にこの国においては。そして僕が想うに、世界とこの国に乖離があるのと同じように、都会と地方にも当然のようにその乖離があるように感じる。だからそんな地方を象徴するかのようなフェイスブックのタイムラインというやつを見ていて、たまにイスからずっこけ落ちるようなポストを見かけたりもする。でもそれもしょうがないのだろう。特に僕が痛感するのは、現在40過ぎの自分だけど、同じくらいの世代でもなかなかその考えをシェアできるひとはそう多くは無いような気がすること。そしてそれは逆に下の30代になればもっとナチュラルにシェアされることが多くなるだろうということ。というか、だから僕は30代とばかり呑んで遊んでもらっているのだろうし、事実そんな話をしても彼らは当然のように付いて来るだろう。少なくとも僕の周りの30代には少なからずシェアできている感覚がある。

そしてきっともっとその下の世代になれば、もしかしたらまたその数は増えるんじゃないかなと予測する。なぜかといえば、それはどちらかといえば理屈というよりも、もっと感覚的なものに違いないからだ。考えが合うか合わないか、ではない。感覚が分かるか分からないか、なのだ。だからこれまで笑えていたことが自然に笑えなくなるのは自然に当たり前のことじゃないかな、と思ったりするわけで。だからこそ自分はこの国がどうとかいっても、若いひとたちにこそ未来はあるし、そのことについては自分なりにそんなに絶望はしていない。でもということは、僕と同じ世代かそれより上の世代には少なからず絶望していることになると思う。どうも既得権というやつに捕われ過ぎている人間が多いように思えるし、こっち側からばかり見て、向こう側から見ることができない人間が多いように思えるから。もちろんそれが歳を取るということ、感覚と人間が固まってしまうということなのかもしれないし、そのことは常に自分で自問自答していることなのだけど。もうそれができないと分かったら、自分だって誰だってさっさと若いひとに席を譲るべきだ。たぶん。

そしてなんでどこぞの一介の店主である自分がこんな大それたことをここに記すかといえば、これからの世の中はそれがどんな店であれ創り手であれ、これまで書いてきたようなことに無自覚ではいられなくなるだろうと思うから。別にそのことに対して無自覚でもいいけれど、そのこと自体、店として創り手として、もはやとても重要なロスのように思えてしまうから。少なくとも自分は無自覚では居たく無いし居られない。だからこそもしかしたら冒頭に書いた僕が愛する店はヴィーガンメニューがあったというわけなのだろうし、きっと根底に通じるものがあるからこそ、僕はその店に通うのだろうと思う。別に大それた考えや主張はなくったって、ちょっとしたことでその指針を示すことはできる。もちろんこんな文章だってそのひとつといっていいと思う。言うまでもないことだけど、どんなひとがやっているかでその店は決まる。どんなひとが創っているかでその作品は決まる。これからはますますそのことが色濃くなってゆくはずだ。

・・・しっかし説教くさい辛気くさいこと書いちゃったなぁ。まぁしょうがないですね。子どもができると誰だってその先を見るもの、のようです。というわけで、そろそろ次の展示会である「カップ展」が始まります。














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