2016年9月9日金曜日

日常と地続きであるということは


・・・とまぁなんとなく店の内的状況ばかりを言っても始まらないので、今回の展示会の内容でも。展示させていただいているのは、京都の『ウスカバード』さんのアクセサリーと、『そら植物園』の植物たち。今回は造形作家gajuさんにディスプレイを手伝ってもらい、凄まじく愉しい感じになっています。




フェイスブックの方でも書いたのだけど、『ウスカバード』はインドやタイを旅しながらさまざまなモノを仕入れてはアクセサリーを産み出す素敵な創り手。とにかく天然石の並べ方やアジャスターから、ひとつひとつ丁寧に紡がれているのがわかる希有な作品群。一方、希有と言えば、『そら植物園』ももちろんそうで、“プラントハンター”としてお馴染みの西畠清順さんが世界中を廻ってさまざまな国から見つけてきた珍しい植物たちを展開。



まぁでも「珍しい珍しい」だけで売っているとやっぱそれにはキリが在るっていうか、自分が『そら植』に期待を抱いてるのってそれだけじゃなくって。なんというか植物自体のそもそもの力とかかわいさとか気味悪さとかを改めてみんなに知らしめながら、でも結局のところ、植物は植物であって植物以外の何ものでもないんだ、ということこそを知らしめる力に期待しているというか。だってそもそも僕らにとって、植物って存在を買ったり飼ったりするのってなんなんだろう?別に造花でもいいんじゃないの?そもそも植物が要るならなんでなのよ?てかそもそもグリーンってなんだと想う?・・・とゆーよーな、なんだかしちめんどくさいことを考えてもいるわけです。





しちめんどくさいといえばね。展示会中のある日、ふと気がつくと、二十代半ばの女性が『ウスカバード』のアクセサリーを店頭で見ていた。いつも自分の接客の常としてそうするように、なるべく最初はそっとしておいた。ひとそれぞれだろうけど、なんとなく勝手にその短い対峙の時間こそがいちばん大事なような気がしている。作品とひとの個個の無言の対峙みたいなもの。作品になんらかの力があって、少しでも受け手がそれに惹かれている時はきっとそっとしておいて大丈夫だと、なぜか信じている。というか、なんといってもいまの僕はなぜかNetflixの『ゲットダウン』よろしく、あるいは「帽子が笑う・・・不気味に」by シド・バレット、シクヨロなスクリューアフロな髪型をしているので、作品の印象をなおさら変な意味付けしたくないな・・・と結構時間を置いたと思う。そうして近づいていっておもむろに『ウスカバード』の説明を始めたのであった。



彼女は言った。「・・・なんだかどうも石にこころを惹かれているのだけど、じゃあ石のアクセサリーというものをふつうに探してもなかなか見つからなくって。ウェブで探しても、変にスピッたパワーストーン系なものに行ってしまったり、デパートの催事よろしくハイソサイエティ気味なひとたちしか買えない様な高すぎるものしかなかったり。ほんと、こういうものこそを探していたんですよね」あんまし激しく高ぶる同意に、思わず彼女を抱きしめようかしたけど、さすがにそれは捕まるだろうから止めといた。がしかし、本当にそうだと思う。僕が『ウスカバード』のアクセサリーに感じているのも本当にそういうことなのだ。なんというのだろう。使われている素材は、例えば古代からあるほどの天然石なんだけど、決してそれが博物館みたいな扱いではなくって、僕らの日常と地続きになっていること。たぶんそれって、ウスカバードのふたりが常に旅しながら、古代といまこの瞬間を精神的にも自由に行き来して、日常と地続きに日々アクセサリーを紡いでいるからに違いない。というか、彼女の言葉のおかげでそう気づいた。そしてそんなアクセサリーはありそうでほんとなかなか無いんである。



そもそも自分が展示会なんていうものをするのは、もちろん生活というか数字のためもあるのだけど、本当のところをいえばこういうことのためなんだろうなぁと改めて気づいた。あるひとつのモノ、自分が何かしら心惹かれるモノがあって、もちろんそれなりの理由があるのだけど、さまざまなひとたちの目に触れてお互いに話をすることで、また新たな深い理由のようなものがうっすら見えて来る。自分でも気がついていなかった解釈、実はもともと内にあったのだけど捉え方の違いではっきりする想い。僕自身は案外直感でいろんなことを判断しているので、後から後からその理由が見えて来るわけだ。これはこれでなかなか愉しいことです。

というわけで、今回の展示会は今週日曜11日まで。そうしてそろそろ次のお店の場所がうっすらと見えて来た感じで、近々ご報告できるかもしれません。かしこ。

2016年9月4日日曜日

究極の一期一会




前回の『玉木新雌』展示会に引き続き、今回の『ウスカバード』と『そら植物園』の展示会も蔦屋書店三年坂店の地下で場所を借りてやらせてもらっている。蔦屋書店三年坂店というのは、それは熊本の街のど真ん中にあるところであって、ということはそれはまさしく一等地であって、人通りも多いし、実にありがたいお話だ。

でもこういう感じの催事場っぽい感じで一度でも販売をやったことがあるひとならば分かると思うんだけど、なんだかとても不思議な感じである。例え2週間とはいえ、というか2週間だからこそ、ほとんど商品のディスプレイ命みたいなところはあって、それはまぁ間違いなくそうなんだけど、でも言ってもこれは急遽現れた露店である。もうそれは究極の一期一会というか、通りすがりのアイオンチュウというか、ひとりっきり想いっきりマルシェというか、とにかく非常に押し引きが難しい状況だ。いくら置いてある商品が良くったって、店員がなにやら気に入らないヤツであれば一蹴される可能性ありありだし、僕だって客としてそういう経験はあるし、でももちろんその逆もあり得る。その逆の場合のために僕はここに居て、お望みとあらば、お望みでなくとも、商品の説明を行うというわけだ。でもできるだけ商品の邪魔にはなりたくないので、できるだけ自分オーラは消して挑んでいる。でも無理か。



そしてこういう販売を経験すると、いかに自分のお店を持つことがリスクあることか、というのを改めて思う。だってまず誰の店だってドアを開けなければならないし、ということはつまり、ひとんちに「すいませーん」と入り込まなければいけない。通りすがりの露店と、いらっしゃいませな自分の店と。そこの線引きというは、本当にデカいと思う。当たり前のことかもしれないけど、わざわざ自分のお金を払うためにひとんちに入る行為ってとても不思議である。たまに外食が心底嫌いで自分ちじゃないとご飯を食べない頑固お父さんお母さんがいたりするが、それもこう考えてみると当たり前のことかもしれない。だってほら、デパートの露店の試食と、店に入ってお金払って食べるのって、まったく違うものじゃないですか。そうしてふと、そりゃネット販売がある意味流行るはずよな、とも納得する。わざわざひとんちの門叩いてウザいかもしれぬサービス受けるよか、自分でポチリとあっさり買ったがどれだけいいか。自分は世代的にも性格的にもデタッチメントな人間では無いと思うのだけれど、でもこういう販売を経験してみると、逆に確かにそれも一理あると思わされるのが面白い。

そしてそしてどうやら最終的なところ、自分がそんなデタッチの道を選ばずに、なんにせよアタッチの方を選んでしまうのは、どうもそれがデタッチなんぞを蹴散らす“大いなる悦び”みたいなものに繋がっているからだろうな、とも思う。例えば日がな一日、朝の九時から夜の九時まで販売していて、その日一日暇でヒマでヒマで死にそうであっても、最後の最後にたったひとりだけでも「すんばらしい」と思えるお客様と出会えたらば、案外嬉しく生きていけるかもしれん・・・というようなこの良いか悪いか分からんアホな性格。その辺はこう見えても割合血が濃いというかアツくて、まぁだからこそこんなことをやっているのかもな、とも思うわけで。そうして結局、また懲りもせずに新しい店を見つけようとしているこの愚弄もの。そう。ぼちぼち新しい店探しも進んでいます。果たしてうまくいくのでしょうか? そういうわけで、来週日曜11日まで展示会は続きます。