2015年2月28日土曜日

お昼を作ること





移転した店では前の店よりも食品を置いているせいもあって、いまのところ積極的にまかないを作っている。自分の分と他スタッフ2、3名分。朝お店に出勤していろいろオープン準備をして、一息つくと「今日のお昼は何にしようかな」となる。すぐ近所にはスーパーがあるのでとても便利だ。二日酔いのことが多いので、なんだか香辛料の利いた料理が比較的多い。

以前も書いたことだけど、お昼ご飯を自分たちで作って食べることができる職場というのは、自分にとってはとても大事なことで、みんなもできればそうすればいいのに、と押し付けがましくもそう思う。いつもいつもじゃなくっても、たまにでもいいからそれをすると、とても幸せな気持ちになれるのになぁと考える。




もちろんお金の面とか栄養の面とかのこともあるけども、自分にとっていえば、それは「自分たちの生活をデザインできること」、というのが一番重要な気がする。お昼に自分たちが食べたいものを自分たちが食べたいように作ってみんなで食べる、というのは、やはりそれぞれが日々コンビニの弁当を買って来て食らう、というのとは、同じ食べるという行為でも、どうも違うことのように思うのです。

別にそれを高尚な行為とも思わないけど、食べたいものを作るからにはまずは自分のきもちとからだに食べたいものはなにかを聞かなければならないし、聞いて分かったならばどういう風に作るかを考えなければならないし、結局考えたのだったら考えただけではダメで、手と足を動かして食材を穫りに(買いに)行かねばならなくて、買って来たらばそれを料理せねばならぬ、わけで。大げさだけど一連のその流れをさささと決めてやっていかなければならない。そういう日々の積み重ねというのは、間違いなく少しずつ自分のなかの何かを変えていくに違いないと思うわけですね。何をどう変えていくかはまったく知らぬけども、その積み重ねをしていく日々をきちんと見つめながら生活していくことの重要さって確かにあるのではないかと。まぁそれはきちんと目的意識を持ちながらアイロンをかけるとか炊事をするとか、そういうことも同じことかもしれない。




きょうも豆豉醤をたっぷり効かせた「中華そぼろレタスご飯」を作りながら、「でもしかし、もし俺が日本人みたいにいろんな国の食事が想像・創造、体験できる国に産まれなくて、まるでバリエーションのない、日々同じ繰り返しの食事を繰り返すような国に産まれたのだったら、こんなにお昼を積極的に作ろうと思うのだろうか。というか、幸せなのはどっちなのだろうか」などと考えながらご飯を作っていたのだけど、それはまぁどうでもいい、行き着くところのない話ですね。

2015年2月18日水曜日

自分以上のもの




移転しました。

・・・と書き打ってみるが、かなりブログはご無沙汰であり、その理由はといえば、長らくMacが壊れてしまい、パスワードとかアドレスが分からなくなり、ログインできなかったというていたらく。パソコンだとか携帯が壊れただけでなんとまぁいまの生活の崩れることか。にしてもよく思うのだけれど、現代人というのは本当に自己管理が必要なのだなぁ、そして、たらたらと生きているようにも見えるあのひともこのひともあの子もあいつも、その辺の自己管理というやつはしっかりできているのだろうなぁ、おれってその辺本当にだいじょうぶなのかなぁ今後は?ということだけど、まぁ仕方ないですね。

前の店は自分たちでできるところは内装もやり、かなり手作りの荒々しい、良く言えばハンドメイドで心のこもった、悪く言えばちょっと薄汚れた店であって、いや、そうだからこそ、そしてなんといっても初めての自分の店であるからして、かなりスタートから力が入っていた。・・・ように今思えば想う。中に入れる什器とか、ショップカードとか、「~でなければならぬ」、という感じが強かった。結局は1年とちょっとという期間をやって、お客様のなかには「まだそれだけだったのですか! もっと長くやられていたのかと思っていました!」という、お褒めなのかどうなのか自分でもよく分からない言葉をいただいたりしたけれども、とにかく今度の場合はどうもそういう感じでもなく、「うん、まぁいいんじゃないですか」という妙な余裕の感じが自分の中にどうにもあるようだ。家賃は確実にあがり、経済的にいうと結構な土俵の瀬戸際だが、まぁ心持ちはそんな感じである。そんなことを店の人間がここに記すことがいいことなのかどうかは相変わらず自分でも分かりかねるけども、でもこれは僕の店であるからにはその辺のことも自分自身でも考えていきながらお店をやっていきたいので、まぁそれはそれで良いのだと思う。

ただそれは初めての気負いが抜けたからとか、ある程度は慣れたからとか、なんといっても初オープンではなく移転したからとか、それらすべて当たっている。が、それより何より、昨年1年さまざまな創り手のひとたちと映像とかDMとか企画を創って進めていくうえで痛感したことと無関係ではないはずだ。それはつまり「自分ひとりのなかでできることなんていうのは、所詮自分以上のものにならないのではないか」みたいなことであって、いくら自分のこだわりのみで進めてもそれには結局は限界があるよなぁ、かえってなんだか狭苦しい気がするし、やはり他人の入る余地があってそれが入ることによって、1+1=2になって、そのまた倍になって倍になって、自分だけでこしらえただけでは到底見ることのできなかった景色を見ることができるのだろうなぁ・・・ということなのかもしれない。「自分は所詮からっぽの容れ物にすぎない」といったのは亡くなった映画監督の伊丹十三さんだけども、なんとなくそういう感じというか。特にお店なんてものはやはり最後に形作っていくであろうはお客様であり、いくらしゃっちこばって自分をだしてみてもなんだかね、ということも感じているのだと思う。うーん、大人になったのか? うん、そういうことなのかもしれない。