2018年8月29日水曜日

阿蘇坊窯 展示会 ASOBOUGAMA EXHIBITION

『阿蘇坊窯 (あそぼうがま)』。その名前の通り、そこで形作られては焼かれる器は必ずや阿蘇の土や溶岩や草木などを使っている。取材当日、工房に伺うと、まさに掘ったばかりの赤い土がおもむろに袋に入れて置いてあった。もちろんそんな素材も作家自ら掘ってきたものだ。一年間寝かせたりして使う場合もあるそうだが(その土も見せてもらったけれど、熟成して味噌のように馴染んだ色になっていた)、そこにあるのは掘ったばかりの、あまりに“まんま”な土のように見えた。



「・・・やってみましょうか」。

本当にこんなにも“まんま”な土で器なんてものができるのだろうか。なんてぼんやりこちらが考えていたのを察してか、『阿蘇坊窯 』山下太さんは土を袋から出し、土に混じった小石や木の根っこなんかをざっくり取り除き、力強く土をこね始めた。叩いてはこね、叩いてはこね。




そしてしまいにはサンダルを脱ぎ捨て、台の上にさっと駆け上がり、その足の裏でダンダンッ、ダンダンッ、と踏み出した。そうしてようやくだんだんと土が滑らかになっていき、色も均一に馴染んで来る。工房には驚くほど力強い音が響き渡っている。でも猫たちは逃げない。いつもの作業なのだろうか。僕はといえば、とにかくなんだかあっけにとられ、その作業を目の前に「まるでうどんをこねているようだな」なんて馬鹿なことを想いながら見ている。







十分な柔らかさになると、太さんはロクロの準備を始め出した。でもなんだか苦笑いと言うか、どうも照れくさそうな顔をしている。そしてこう言った。

「本当はね、こういうのはひとに見せるものではない気もするんです。・・・だって・・・なんかほら、それってひとのセックスを見せられているのと一緒のような、ね」。



ロクロとセックスかー。その時、僕の頭の中にあの映画『ゴースト ニューヨークの幻』のエロティックなロクロのシーンが浮かんだのか、それとも浮かんでなくって後付けでそれを思い出したのか、それは定かではないが、いや、とにかくその後、山下さんがロクロをまわしている姿を見た時、その意味が分かった気がした。創造。融合。そのトロトロに溶け合う様。文字通り、土と戯れながらなにかを産み出すその様子はとてもとても濃密で、見てはいけないもののような、たしかにエロティックでさえあった。そしてそれはたぶん、自ら阿蘇の土を掘って、その土を使いつつお互いに溶け合うからこそ起こる創造なのだと想う。つまり、山下さんは阿蘇そのものと寝て、融合し、溶け合い、交信しているのだろうと。



「せっかくだからこれも焼いてみましょうかね」。たったいまロクロを回してつくってくれたカップを見ながら山下さんは言う。でもたぶん難しいかもね、とも。掘って来た阿蘇の土100%だとやはり焼いた時にどうしても割れやすいのだそうだ。土にはどうしても小石なんかも入っているから、そこからヒビなんかも入りやすい。だから阿蘇で掘って来た土と他の土などを混ぜて作品を創ったりもしている。さぁ果たしてこのカップはこの世におぎゃぁと産まれることができたのだろうか。『阿蘇坊窯 』展示会、いよいよ今週土曜日から始まります。


(写真すべて hisatomo.eto)


阿蘇坊窯 展示会 ASOBOUGAMA EXHIBITION
2018.9.1(sat)〜9.17(mon)

2018年8月19日日曜日

帽子はひとつの旅である

「お前はなんでハットを被るの?」

いつだったか、かつて自分の父親にそう聞かれたことがある。・・・いや、その父はまだちゃんと生きているのだけど。



その父も別段帽子が嫌いなわけではないみたく、よくなんらかの帽子を被っているようなひとなのだけど、でもそれでもやっぱりハットというのはまた別な世界観を持ったもので、例えばキャップをいつも被っているひとに「なんであなたはキャップを被るの?」とはあまり聞かないだろう。つまりハットって、それくらいそれ相応の世界観のあるものなのだと思う。



今回のDMにも書いたのだけど、なぜハットを被るのかとの問いに、「帽子はひとつの旅である」と答えたひとがいた。映画監督でエッセイストの伊丹十三。彼は「帽子とは外の世界でしょ」、とまず言い切る。いつもの自分、つまり内側の自分というのはごくごく親しいひとたちと馴れ合っているだけの人間なのだが、外の世界というのはそれはもうまったく違う。そこは他人と他人がせめぎあう、いってみれば大人の世界。自分の欲望を自分でコントロールし、孤独に絶え、父の父たる言葉を我が子どもに伝える、タイヘンな世界なのだ。ハットというのは、そんな外の世界の象徴なのだ、と。

そして最後に、なんでそんなしんどい想いまでしてハットを被るのか、というと、そりゃあ退屈で仕方ないからだ。人間というのは自分に死ぬほど退屈していて、いつも日常から非日常への脱出を企てる。だからして、つまり自分にとって、帽子はひとつの旅である、といえるのではないか、と結ぶわけだ。



なんとまぁ素晴しい文、というか明晰過ぎる思考だろうといつも惚れ惚れしてよく読み返すのだが、でも自分の場合はもっともっと無邪気だなと思う。








父からなぜと聞かれて考えた時に、頭の中に数人、そして例えば映画の数シーンが浮かんでは消え、例えばそれらがいまの自分を構成しているということなのだろうな、とぼんやり想ったりした。

例えばとあるときのローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、そしてTOKYO NO.1 SOULSETの渡辺俊美、そしてその父たる存在のジョー・ストラマー、例えば手がけたその曲名がいまの店名にもなっているリバティーンズのピート・ドハーティ、さらに幾多の数えきれないレゲエアーティスト、そして星の数ほど輝くようなどこかのルーディーたち。また例えば『ゴッド・ファーザー』のアル・パチーノ、そしてまた例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のロバート・デニーロ。そしてもちろん伊丹十三。・・・あ、最近だったら『おさるのジョージ』に出て来る、あの黄色い帽子のおじさん。などなど、無邪気に挙げていけばキリが無いけれど、自分のなか、そして後ろには、そんな数々の恩人(すべて自分の人生の格好良さの指針となるようなひとたちなので、それはもう恩人だと言っていい)がいて、きっと自分はその系譜にいたいのだ、という証なのだと想う、つまりは自分にとってのハットというのは。





とまぁそんな無闇矢鱈にアツく、ハットを被る意味なんてモノを考えなくとも、ぜひとも観に来て欲しい『hat maker KOHSUKE INABA』の販売会&受注会を昨日からやってますので、ぜひとも来て欲しいです。







2018年8月8日水曜日

無理している人は。

リリー・フランキーと料理家の澤口知之による名著『架空の料理空想の食卓』のなかで、「無理している人は、世の中を幸せにする」という名文がある。



へたに夢なんかみるより、とにかくいろんな無理をしろ。その無理こそが美しいし、「今日はいい無理みたなぁ」という素晴しい無理こそ、ひとの明日への鋭気となる。みたいなことを言っているのだが、いつも読み返したくなる名文だ。

いや、ほんとそうだよなぁ、と。考えてみれば自分を含め、周りにはなんだか無理しているひとばかり。得てして特に、自分がこころから想うモノを産み出したり、ひとのためにご飯を拵えたりすることを仕事にしているひとなんて、割に合うかどうかなんて考えているわけがない。そしてどう考えても、彼らががんばって働いたそのお金がその後手元へ見事に残っているようにも思えない。だって手元にお金が入っても、必ずや彼らは次の無理のために使ってしまうに決まっているから。もうそれはそういう性分なのだろう。




もちろんそんなひとばかりではないのも知っている。モノを産み出したり、ひとのためにご飯を拵えたりすることだって、きちんとしたビジネスなのだし、できるだけ無理せず、さくっとすべてをお金と時間の秤にかけてやってしまうひともいるにはいるだろう。でも少なくとも自分はハナっからそういうひととは相容れる自信がない。久々に出会ったその隙から「・・・最近どう? 儲かってる?」なんて聞いてくるのがその手のひとであるはずで、無理の感覚なんてそのひとと共有しようがないから。



でも僕のいうそんな無理なんて、じつはなかなか見れるものじゃない。なかなかできないからこそ無理なのであって、そして無理はいつまで続くかわからないし、いつ身体が壊れるか分からないし、いつお金が尽きるかもわからない。だからこそ「おいおい、これ無理してんなー!」と感じたら、たくさんその無理を味わいに行くのがその筋のマナーだと思う。美しい無理は他のなにものでも埋められるわけではないから。









そういう意味では。展示会の搬入直前にみなでヨナベをしながら創り上げた店内デコレーション、展示会中に作家自ら壁に直接描かれしその絵、紙質から異様にこだわった見開きのDM、展示会開始直前に起こってしまった創作的に衝撃的な事件にめげず再々に渡って追加納品される作品たち、マフィン&焼き菓子作家『hocolovu』さんとの手描きによるコラボBOX、いまだやったことのない初の造形&絵付けワークショップの2連チャン。・・・とどのつまりは「おいおい、これ無理してんなー!!」。

だからこそ、そんな無理を観に来てくださいまし。『Cellula-Shige Yuko Exhibition-』は今週日曜までです。