2016年2月15日月曜日

『megumi tsukazaki』の世界

・・・とまぁ商売に関係のない話ばっかしても仕方ないので、現在『NATSUKO SAKURAI』さんのジュエリーとともに展示させていただいている『megumi tsukazaki』さんの作品のご紹介でも。



塚崎愛さんは横浜にてオリジナルの硝子の釉薬などを使いながら、主にジュエリーベースやら小箱、アクセサリーなどを創作されている。写真を観てわかるように、独特の透明感と質感を、硝子の釉薬によって創り出す。「水のような 空気のような 静かな陶」がコンセプトであり、作品それぞれにそのコンセプトを反映した作品名が付けられていて、なんというか、それがより彼女の世界観を色濃く映し出している。


貫入というひびと気泡が美しい「水滴小箱」(5000円+TAX)



底の水滴がとても雅な「水滴ぐいのみ」(3500円+TAX)


ネックレスがからみにくい技も小粋な「水たまり小道」(3000円〜+TAX)

「アーティスティック」・・・なんて、ひとことで書いてしまえば、途端にそれはつまらなく、そしてきっと遠いそっけない存在になってしまう。が、彼女の作品たちはあくまでもう少し自然で、積極的な抽象性のようなものを打ち出す。そこが親しみやすさに繋がっている気もする。きっと創作するうえで、あえて偶然や自然の要素も強く意識していて、結局のところ、だからこそ、ひとが創り出したものというよりも、自然が創り出したもののようにも見えてしまう。例えば、永年、川の激流、緩流によってえぐられ削られた岩だとか、日々の雨風や風化によって形作られた壁や石だとか。「形作ること」と「形作られること」のその間、あくまで流れゆく水に逆らわず身を委ね、それ丸ごとを敢えて対象としてしまうような、まぁひとことでいうと、奥ゆかし懐かしい感じというか、それはきっと「根源的」といっていいとおもう。きっと。


水に浸っているような一輪挿し「水になりゆく花うつわ」(4000円〜+TAX)


ごつごつ感が愉しい「土飾り」(ペア4500円+TAX)


載せたアクセサリーを惹きたてる「糸雨」(3000円〜+TAX)

それぞれの作品の儚い美しさももちろんさることながら、その総合的な世界観の構築と打ち出し方に感心する。自分の世界観を丸ごと自らプロデュースしながらも、しっかりとパックして世に問うのはなかなか難しい。創り手のひとでも、それをできないひとは多い。そこにはいわば自らのストーリー性が必要だし、何よりそれを支える自らのセンスが必要になってくる。陶磁器を使った作品と聞いて、やはり誰もが普通考えるのが「器」なはず。それはそれで構わないけど、でも自分が本当に創りたいと想ったものが「器」じゃなかったらとしたら、果たしてどうすればいいのだろう。だからといって道が無いわけではない、ということを塚崎さんの作品を見ていると想うし、道無き道をあえて創ろうとするその姿勢に強く共感する。


こんがりとした焼き色がなんだか美味しそうな「万年雪」(5000円+TAX)


存在感のあるテクスチャーが光る「土飾り(シングル)」(4500円+TAX)


ちょいグロがたまらない「ろ過小箱」(5000円+TAX)


新作のろうそく「結蝋」(3200円〜+TAX)


・・・と偉ぶっていってますが、僕はまだ残念ながらご本人にお会いしたこともなく、今回はジュエリーの桜井さんのご紹介で初めて作品を通して知った。これはとてもうちの店にとっては極めて珍しいパターンだ。というのも、基本は作品を実際にこの二つの目でまず観て、できれば創り手に実際にお会いして双方納得して、そして大概はお互い盛り上がったうえで、作品を取り扱わせていただくことがほとんどだから。でも今回はジュエリーの桜井さんからオススメがあって、そこを信用したうえでのある意味チャレンジであった。だからこそ、本当にこういう出会いは嬉しい。

作品はなかなか好評に受け入れられている。そうだろうなぁ。うちの店のお客様であれば、このラインは必ず好きなはずだ。というか、まず俺がこんなにも好きなのだからなぁ・・・とうそぶきながら、イヤリングなんぞを付けてみては満足している店主なのであった。



男子にもいける「長方形」イヤリング(4500円+TAX)

2016年2月3日水曜日

『1998年の宇多田ヒカル』

・・・とまぁそんな宣伝めいたことばっかり書いていても仕方ないから、最近読んだ本のことでも。『1998年の宇多田ヒカル』という、現在巷の一部では「預言書」と言われている、かなり売れてる一冊。



といっても、一部で話題だから買って読んだわけではなくて、そもそも僕はこの宇野維正さんという映画・音楽ジャーナリストが昔から好きで、この方が雑誌『ロッキングオン』に居た頃からのファンだった。初めて本を書いたと聞いて、何はなくとも手に入れて読んだというわけだ。日本ではそれこそ小説家なんかには「好きな作家」という位置があるけども、なかなか純粋にライターで「好きな書き手」というのは少ないような気がするので(正直自分でもそんなに居ない)、まぁ珍しいことなのかもしれない。

1998年というのは、CDが日本で一番売れた年。そして宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみという、1998年から現在も突っ走り続けている歌手たちがデビューした年。彼女たち同士の、実はなかなか濃い相関関係(特に宇多田ヒカルと椎名林檎の濃い関係は知らなかった)、彼女たちの当たり前すぎて忘れがちともいえるそれぞれの偉大さ、そして2016年現在から俯瞰して見えてくる音楽業界の在り方なんかが、とても読みやすい文章で、書き手の想い入れをできるだけ削ぐかのような落ち着いた文章で(でも内に秘めた熱い想いはそのままに)記してある。当時の渋谷系や小沢健二のことについても触れていて、ついこないだ復帰ツアーを宣言したオザケン、そしてついに今年NHKの朝ドラ主題歌で復帰を果たす宇多田ヒカルのニュースと見事にリンクした、つまりはオドロキの「預言書」というわけだ。元々書き手はどちらの情報ともリークしていなかったそうなので、これは本当に凄いことだと思う。流れが起こる時には、こうやって本当にすべてが繋がって起こってしまうのだから。ウワサ通り、2016年は「音楽の年」になるかもしれない。というか、自分は根っからの宇多田好きなので、ただただ本当に嬉しい。

「あれから 僕たちは 何かを 信じてこれたかなぁ」。この本でも引用されているけど、スマップの、スガシカオのこの歌詞がぐるぐると脳裏をめぐる。読んでみると、みんなそれぞれ感じることがあるだろうけど、僕自身のことでいうと、やっぱり今現在、この地方における音楽とかカルチャーの在り方について、つい考えてしまった。1998年と2016年現在。20年近くのなかで、過ぎ去ったものと、もう元に戻らないもの。ここ熊本で、1995年に2フロアでオープンしたあの眩しいタワーレコードが閉店したのが2011年。ちょっとキーを叩いてみるだけで、熊本のタワレコが無くなったことを、現在でも嘆いているひとがいかに多いかということに驚く。いまやこの街の小さな音楽ショップもだんだん無くなり、もうほとんどここはカルチャー砂漠状態。アナログレコードブームなどと言って喜んでいるひともいるけれど、本当にそうなのか。どうも店とお客さんがきちんと定期的にキャッチボールをしながら、日々うごめいていくような本物の流れではない気がする。少なくとも、ここにおいては。少なくとも、僕の考えでは。いまに、いやもうそうなってるだろうけど、「CD?それってなんですか?」という世代も出て来てるだろうし、「基本、音楽なんて買うもんじゃないでしょ」という話にこれからますますなっていくはず。1998年のあの狂騒を知るものにとって、そんななかで出来得ることはなんなのだろうか?そもそもそんなことが、まだあるのだろうか?

・・・というか、本当にこの地にカルチャーは無いのだろうか。ようく考えてみると、無いことは無いのだ。僕の周りにだって小さいながらもそれはある。例えば「TSUTAYA」におけるレンタル落ちDVD、CD漁りの中に。例えば『長崎書店』全体とその情報豊富なDM置き場に。例えば日々僕が更新する『vertigo』のFBの文章に。例えば友人でもあり仕事仲間でもある上妻勇太君のすべての活動のなかに。例えば近所の花屋さん『AYANAS』の寺原君が主催する音楽イベント『CURIOUS』のなかに。

ただし、それはあくまで局所的なものだ。全体としてはカルチャー砂漠状態こそがこの2016年の地方の現実、現状であって、それはもう仕方のないこと。状況そのものを嘆いても仕方ない。きっと話はそこから、なのだ。そしてそんななかで自分自身も雑貨店というものを商いしていかなければならない。そのことを改めてキモに命じよう。この本も宇多田ヒカルの復帰によって、この2016年のシーンがどう変わるのかが危惧されつつ終わっている。というわけで、今年はうちの店自身もカルチャーの発信が多めになるような気がしているのです。