2014年1月31日金曜日

雑記(“わかいひとたち”について、そして、わからないということについて)



同じ雑貨屋業やら服飾業のひとたち、はたまた音楽関係、いや飲食関係も含め、いやいやもう総じてカルチャー全般のひとびととおおまかにくくってしまうけれども、彼らと最近話していて必ず出る話題というのが、”わかいひとたち”についての話だ。まぁ単純な話、わかいひとたちがカルチャーにお金を使わなくなった、これからもっとそうなるように思えるけれども、どうしようか、というものだ。

自分は1974年生まれで、大学時代を90年代におくった。90年代というのは現在と比べると、それはもうカルチャー全盛だったというか、もっと多くのひとがカルチャーにお金を払っていたように思う。例えば女の子が率先して音楽を買い(時にはアナログだって買っていた)、映画や音楽、洋服、そのすべてが根底で直結していて、いたるところに知識や蘊蓄の羅列が存在し、それはそれでウザいところもあったけど、少なくともなんだか心持ちが豊かではあった。あるひとりのアーティストが好きだと公言する音楽、あるいは最新アルバムで引用した音楽なんかを必死に調べて、なんとか繋がろうとした。映画とて、同じだった。たとえ知識であっても、そういう繋がりや心持ちというのは、悪いものでもなかった。同時代性、といってもいいのかもしれない。同じ時代を生きていることをお互い確認しあうことで産まれてくる喜び、のようなもの。

はてさて。そういう状況があったという事実を、いまのわかいひとたちはどう捉えるのだろう。うちのお店にも大学生や20代のひとたちがたまに来てくれるけれど(というか、うちのような店にそんなひとたちが来てくれるだけで嬉しいのだけど)そんな話はしない。ただただ、僕なりになんだかわかいひとたちは大変そうだなぁ、こりゃあ「なるようになるよ」とか嘘でもいっちゃいけないんだろうなぁとか、ぼんやりと端から考えている。・・・そうしてこの辺から話はカルチャーから生き方みたいな話にすり替わってしまう。

僕自身、就職活動なんかは一度もしなかったし(やり方もわからなかったし、やりたいことさえもわからなかった)、「どうにかなるだろう」と考えていた。いや、付け加えるなら、「自分自身でいさえすれば、どうにかなるだろう」と考えていたように思う。そこにはぼんやりとだけど、かすかながらも光のようなものがあった。もちろん甘えはあったけど、もう自分自身で産まれてきた以上は、隅から隅まで自分として生き切ろうと思っていた。それだけを頼りにふらふら生きて来た、といってもいいかもしれない。・・・でもじゃあ、現在の時代にその考えを当てはめることはできるのだろうか。

できるような気もするし、無理なような気もする。何より一番の違いは、「どうにかなるだろう」が「どうにもならないだろう」に変わってしまったこと、かもしれない。自分の親の世代なんかに聞いたような、あの繁栄の時代はもう来るはずもない。そればかりか、かの震災もあり、自分の生きている間に取り返すことのできることはとても少ないことに気づいてしまっている。こんなときに「どうにかなるだろう」なんて言ってる方が「どうにかしている」とさえ思う。僕自身も今の時代に小学生だとか中学生だったら、何をどう考えていただろう、と考えることがよくある。もちろん答えはでないけれども。

・・・そう、もちろん答えはでない。カルチャーの話にしても同じだけど、答えはでない。ただ、いまつらつらと書き連ねたようなことをぼんやりと考えている雑貨屋の店主がここいますよ、ここに在りますよ、ということだけが確かなことだ。そこだけしか確かなことはない。でも逆に言えば、それでいいのかもしれないな、とも思う。もしかしたら僕はこんなことをつらつらと書きたいがために、誰かに聞いてもらいたいがために、答えがでないことを誰かと共有したいがために、お店を立ち上げたのかもしれない。わかりきったことを、あるいはわからないことを、わかりきったようにやったり言ったりするのは好きじゃないし、それは自分じゃない。わからないことをわからないままに、わからないなぁと自覚しながらすべてをやっていくこと、こなしていくこと。答えを出すのではなくて、わからないなりにやっていって、結果、その筋道が答えのようなものになっていくこと。それを示していき、記していくこと。そういうことこそを、なんとかわかりあえたらな、とやっぱりぼんやりと考えている。



2014年1月5日日曜日

『Lue』のカトラリー工房見学

岡山の瀬戸内市で真鍮のカトラリーを創っている『Lue』というブランドがある。その工房を見学に行った。

工房の最寄り駅はJR岡山駅から約30分の長船駅(おさふねえき)。着いた途端、結構な地方感にしばし、愕然となる。




駅からクルマで20分ほどで工房に到着する。『Lue』の菊地さんにお会いするのは東京での展示会に続いて2回目。ちょっとぶっきらぼうで最初はとっつきにくく感じるけれど、話していくうちにだんだんほどけてくるタイプの人。ただ、なんというんだろう。年齢の若さもあるのだろうけど、印象的に「職人」というよりかは、もう少し視野を広く持っている感じ。言ってみればこちらのことについても「聞く耳」を持っているというか。まぁ、現在は創り手といっても自らの商品をプロデュースする能力が必要なので、当たり前にプロデューサーの面を備えていると言い換えてもいいかもしれない。それと初めて会った時、なんとなく「このひとはお酒を飲むだろうなぁ」と感じたのを覚えている。

















そもそも菊地さんはお父さんが真鍮のアクセサリー作家で、若い頃からその技術を引き継いだのだが、自分はあまりアクセサリーに興味がなかった。じゃあ何を創ろうか。そうなったときに、ふと昔から料理好きなことに気づいた。であれば、カトラリーを創ればいいじゃないか。とまぁ、そういう流れで、真鍮のカトラリーを創ることになったという。僕はなぜかこのエピソードが大好きで、こういう人と取引したいなぁ、と強く感じた。なぜだろう。よく分からないけど、とっても信頼できる、というか、分かりやすくて納得できるエピソードだと思いませんか?


「どうぞ、どうぞ」。工房に入る。と、あまりに狭くてびっくりする。別にとんでもなく大きな工房を想像していたわけでもないけど、あまりにこじんまりしている。でも考えてみると、手仕事の工房はすべからくすべてが手の届く範囲で形作られており、その方が使い勝手がいいのだろう。陶器でもなんでも、いままで工房を見せてもらったひとたちすべてがそうだったなぁとぼんやり思いだす。

お父さんから引き継いだ工具も多いらしい。

このしゃもじみたいの、なんなんだろ・・・。


こまめにお茶を入れてくれたりと、細やかな菊地さん。なるほど、料理が上手そう。



これ、なんに使うんだろ。なんだかかわいいけど。




お茶でもいただきながら、僕のお店の話などをぼそぼそしていると、「・・・ああ、じゃあ、せっかくだからなんか創ってみましょうか」ということになる。「お時間、だいじょうぶですか?」と菊地さん。「ああ、ああ、もうぜんぜんぜんぜん」と僕。「ええと、じゃあ注文していただいてるティースプーンでも創りましょうかね」。創りましょうかね、って。そういって、できちゃう、やってみましょう、というのがすでにしてかっこいい。オレにはそういう風にできるもん、なんかあるかなぁ。料理くらいかなぁ。むぅ。

こんな一枚の板からカトラリーは創られていく。



はぁ。これが原型か。なんか分かりやすくて唖然。



切れ込み。んー。なんだかリアルだなぁ。



うーん。すでにこいつがかわいいんだ。


「ごぉーーー」っと溶接。この工程がいちばんかっちょよかった。


柄を叩く。柄が叩かれてでこぼこになってるのは握りやすくするためと思っていたけど、補強の意味もあるらしい。

溶接したてのものも「剥き出し感」があってかっこいい。



このマシンが入ってずいぶん楽になった。ぐるぐる回って焦げをとってくれる。



ええと、まぁこんな具合。基本、真鍮の板を切って、成形して、溶接し、柄の部分やカーブの部分は叩いて補強する。最後に焦げを取れやすくする液体に付け、機械に入れて焦げを落とす。時間にして、そうだなぁ30〜40分くらいだったろうか。いままではこの焦げを落とす機械が無くて手作業でやっていたので、それはそれはタイヘンだったが、こいつが入ってだいぶん楽になったのだとか。僕は溶接したてのを見てひたすら「かっこいい。かっこいい」を連発。菊地さん、もうこれで良いと思うなぁ。なんて何度も言い放ってた。「うーん。そういっていただく人が多いとこちらもラクなんだけど(笑)」と菊地さんは言うのだが。

創り方はすんごくシンプル。もうシンプルの極地。でもシンプルだからこそ、こりゃ真似できねーだろうなぁと強く思う。そうだよなぁ、なんせ板と棒で創るのだもんなぁ。なんというか原始的といえば原始的だけど、だからこそなればこそのスタイルが必要とされるのだろう。菊地さんも「使いやすいのはもちろん第一だけど、でもカトラリーとしてのスタイルを大切にしたい」とかなんとか言ってたものなぁ。

溶接せず、ローラーのようなもので伸ばして創る韓国式のスッカラもあって、これはまた補強の仕方が難しく、手間がとってもかかるらしい。それはそうだろう。二つの部分を溶接でくっ付けるわけではないんだから。




うーん。美しい。美しすぎる。ある方から、溶接部分を無くしたスッカラを創ってほしいと依頼を受けてから始まったらしいのだが、その方の気持ちがよくわかる。溶接の部分があるものはそれはそれでいいのだが、このスッカラを見ると、一枚の板から出来た美しさがなお、素晴らしいと感じてしまう。なんだかエロティックとさえ思ってしまうのだ。もちろんこの辺は好みだろうけども。

『Lue』の菊地さんに共感できるのが、こんな手仕事だけでなく、工場での生産、いわゆるインダストリアルデザインのカトラリーにも挑戦しているところ。インダストリアルの部門はまたスタートしたばかりで、なかなか完璧に近づかないが、ゆくゆくはこんなレンゲにも挑戦したいとおっしゃっていた。こちらもとっても楽しみだ。