2015年9月27日日曜日

『Vespertine』について


展示会もいよいよ半ばだし、今回の木 ユウコさんの展示会『Vespertine』のタイトルについてやその成り行きなど、いわば蛇足を書こうと想う。いや、蛇足の蛇足は曲がり曲がって本道に戻ってくるのだろうけども。

『Vespertine(ヴェスパタイン)』といえば、音楽を好きなひとならピンと来るのがあのビョークのアルバム、のはずで。僕はこの内省的で暗いアルバムが本当に好きで好きで、昔からよく聴いているのだけど、そもそも音楽だけではなく、このジャケも忘れられないイメージがあって大好きだった。



僕はDMなんかの原案を考える時、どうも音楽からインスピレーションをいただくことが多くて、このビョークのジャケもいつかDMを作る時にオマージュできたらなぁと考えていたわけで。写真とイラストの融合という意味でも試してみたかったし、考えてみると木さんはうつわも画付けも手がけられるひとだし、もうここしかないじゃないか、と。カメラマンはいつもの衛藤くん。そして今回は自分のイメージをより明確にしたかったので、デザインをいつもイラストを手がけてもらっている上妻くんに依頼。ちなみにこの写真は木さんのアトリエの前で海をバックに撮ったもの。撮影は夏の暑い日で、詩も連れて行って、朝から大変でした(みなさま、お世話になりました)。






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ところで。それこそ、うつわの展示会というのは最早珍しいわけでもないのだろうけど、だからこそ、自分はそのイメージをちょっと変えたいな、といつも想っている、フシがある。お店を始めて間もない僕のような何処の馬の骨ともわからぬニンゲンが、うつわの展示会などというものを手がけるのであれば、そこにはある種のフックがあってしかるべきだと思うし、世にはうつわの展示会じゃないような展示会があったってまったくおかしくは無いはずで。例えばうつわの展示会じゃないようなDMを創って、うつわの展示会に来ないようなひとがうつわの展示会に来ても、方法論としては間違いではないわけで。もちろん、それで成り立っていけば、の話だけど。





しかも今回の展示会は木 ユウコさんと来ている。木さんといえば、僕のなかではそれこそ新進気鋭のひとであり、そしていい意味で捉えどころの難しい、ふわふわぐにゃぐにゃとした、まさに彼女自身が手がけるクラゲみたいな画のようなモノを持った、とても不思議で魅力的なひと。でも一緒にお話をしていると僕なりにはっきりと分かるのだけれど、そのふわぐにゃのなかには・・・くっきりとして尖った確固とした“なにか”がある。それこそが創り手としての骨格のようなものだろうけども。そしてそのふわぐにゃと、そのなかの尖った“なにか”が(ご本人が意識的か無意識的かはともかく)ストレンジなオブジェや煌びやかでかわいいうつわや画に宿り、この世に形創られるわけであり。展示会を企画する側とすれば、ともかくそのふわぐにゃやらをなんとか表に出したかった。まぁ創り手の方からすれば、ほっといたってそんなもんきっと出るのかもしれないし、別に自分はなんにもしてはいないんだけど、あくまで気持ちとしてはそういう想いがあった、ということです。





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今回の展示会はそもそも最初はタイトルなんて考えてもいなかった。木さんはうちでは初めての個展だし、シンプルに展示会に名前を入れた、少し固めなものをイメージしていたわけだ。でもDMの写真撮影をしている時、木さんとつらつらだらだらとお話していると、どうも風向きが変わってきたのを感じるようになる。木さんは僕に「タイトル、自由につけちゃっていいですよ」なんてなかば本気で言ってくれるし、なんだか壁を壊すイメージに僕自身なってきたわけで。うーん、そうなんだよな、そうだよ。まぁ考えてみると、そもそもがよくあるような展示会で収まるひとじゃあないんだ。彼女の初めての展示会だからこそ、ここは守りに入らず、どこかしらブレイク・オン・スルー、向こう側に突き抜けるべきなんじゃなかろうか。きっとそれがうちのような店の役目でもあるんじゃなかろうか、と幾分まじめに考え始めたわけである。






…ここについてはもう少し突っ込んで書こう。やっぱり誰だって、世に何かを問うのは勇気のいることだと思う。作家が作品を世に出すことと、あるひとがなんらかのお店を世に出すこと、それはある意味で似ていることだと僕は思っている。いや、それはあくまで僕にとっては似ている、と言い換えるべきか。それはとても丸裸で恥ずかしく、世間からなんと言われるかも分からず、そして僕らはそうしながらもしっかと地面に這いつくばりながら日々生活していかねばならない。でもだからといって、やり方や道は決してひとつではないはずで。生きる道を切り開く自由、その方法こそは、本来ならば誰にでもあるはずのもので、本来ならば何よりも大切に尊重されるべきだと、勝手に気まま奇跡的に生きて来た自分のようなニンゲンは思うのである。「この道を行かなければ間違いだ危ないよ、そもそもそんな方法は甘いんだってば、続かないんだってば」そんな声がどこからか聞こえてくる。それは世間の、いやいやそもそも自分の声なのだろうが、それは嫌という程分かっている。でもそんな声は素知らぬ顔で蹴飛ばして、僕らはなんとか自分の道と生活を切り開かねばならない。いや、そうありたい。そんな大層なことをいつも考えているわけではないけど、でも僕はうちの店の基本的なあり方はそうであって、お付き合いをさせていただいている創り手の方たちとも(もちろんそんな話はしたこともないけども)、どこかしら根底に繋がっている部分があるんじゃないかと勝手に思っている。いや、そう、信じている。みんなが思い思いのやり方で、自分の作品やなんらかの店をなんとかやっていければいい。失敗と挫折を繰り返しながら、なんとか創り上げていけばいい。そう、思っているわけです。

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撮影からへとへとになって帰り、さてどうしたものかと考える。何か具体的なイメージが欲しい。ふと、そもそもこのビョークのアルバムのタイトル『ヴェスパタイン』の意味って何なんだろうなと調べてみると、「夕方から夜にかけて咲く花」「夕刻に現れる星」「夕べの祈り」だという。・・・ふうむ、ピッタリだ。木さんご本人もたいていは夜に画付けをするって言ってたし、星のイメージもなんだか木さんの手がける画にかなり近いし、何より全体的に女性的なイメージがいいじゃないか。もうこれはタイトルまでいただこうと相成ったわけである。時はちょうどオリンピックのパクリデザイン騒動。ここははっきりと、自分の好きな作品にオマージュを捧げなければならない時だと考えた。

木さんもとても喜んでもらえたようで、随分とタイトルに作品が引っ張られた、と店としては最大限のお言葉をいただいた(と思っている)。たぶんその結果として、木さんはたくさんオブジェを創ってくれたし(オブジェクリエイト熱がなかなか冷めず、キケン水域までいった)、うつわには今回のタイトルに引っ張られた月とか惑星のイメージの画が増えることになった。それはお店側として大変喜ばしいことなのであります。




ということで、展示会はまだまだ続きます。














2015年9月13日日曜日

香川、『maroc』への旅


先日、香川に出張に行ってきた。車、フェリーを使っての、片道7時間くらいの、しかも1歳半ばの子連れで、というなかなかのドライ&ヘヴィな旅。そもそも今回の旅の目的は香川でモロッコのラグを販売していらっしゃる『maroc』さんに行くこと。『maroc』さんは香川市内から少し離れた田んぼのど真ん中にあるだだっぴろい倉庫で、植物を扱われている友人とシェアしつつ店をやっている。カフェスペースなんかもあって、手作りで手がけた店の感じといい、かなりイカした若いセンスを感じさせる店だった。こういう店が熊本でもあるといいのになぁとひとごとのようにぼんやり思う。






モロッコにもいろいろラグはあるらしいのだけど、こちらはベルベル村で作られた「ボシャルウィット」というラグがメイン。例えば洋服を裂いて、いわばリメイクな感じで作ったコットンのラグは、いい具合のポップさがあって、ラグが部屋を選んでしまうかのような、よくある民族的すぎるアレが少ない。例えば北欧やらいろんなテイストに合わせやすそうである。ウールで編んだタイプとかいろいろ種類はあるのだが、比較的価格も手頃なので、これはかなりオススメのラグ。10月から取り扱いが決まったので、写真を見てドッキドキの方は絶対来てください。








まぁその辺はおいおいしつこいぐらいに語るとして、香川といえば「うどん県」。忙しくてなかなか行けなかったのだけど、まずはモーニングうどんを、ということで、通りすがりに見つけた古い感じの『大島うどん』というところに。入ってすぐに「セルフ茹で機」と、もうぐつんぐつんに煮込まれているおでんなんかがあったりして、これぞ香川という感じ。窯玉を頼んだのだけど、徹頭徹尾優しいうどんであって、ああこれは店に貼ってあった誰だかの色紙に「朝から二玉、大島うどん」と書いてあったのも妙に納得してしまう。毎日毎日こういうところでずるずるずるっとうどんを食べ、「・・・ほな、今日も働きましょか」という感じでずっと過ごしていくというのも、ひとつのジンセイではあるまいか、となぜか椎名誠風になってしまう。




・・・だったのだが、その後、『maroc』の方に「せっかく来たんだったら、ぜひ美味しいうどんを食べて帰ってください」と自分のおすすめのうどん屋さんを教わる。『竜雲』という、なぜかお寺のなかにある店である。坦々うどんとかなぜか中華麺とか飛び道具系なメニューが多いのだが(もちろん普通のもあるけれど)、これがむちゃくちゃ美味しい。



比べると『大島うどん』は家庭的で牧歌的な感じであって、もちろんそれはそれで美味しいのだけれど、『竜雲』の方は観光客も地元のニンゲンも黙らせてしまうくらいの意気込みと熱量を感じる店、というか。たぶん日々新しいメニューやうどんの打ち方なんかを研究しているんじゃないだろうか。や、もしそうでなくとも、そう思わせる何かがある店だ。ただうどんとひとくちに言っても店によって微妙に、でもしっかりと味というか喉越しというか、何かが違うのにやっぱり驚いてしまう。いや、それよりなにより奥さんと頷き合ったのは、香川のその醤油の美味しさ。すっきりさっぱりとしてて、人懐っこいようなよそ行きのような、でも最後はちゃあんと仲良くくっついてくる懐の深さを持った醤油であるとみた。お土産やさんにふらりと行ってみると、香川産の数々の蔵で作られたいろんな醤油があったので、醤油の基本レベルが高い場所のようである。そう、「うどん県」は「醤油県」でもあったのだ。そう勝手に納得して、帰ってきたわけであります。



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ところで。今回は子連れの旅でなかなかハードだった。でもまぁうちの息子はなかなか旅慣れているし、すぐに知らない人に懐くので、別に苦労はしない。今回も香川の商店街で僕の抱っこから降りるや否や、すぐさまベンチに座っていた見ず知らずの(ちょいとアヤシげな)おばちゃんのところへ行き猛烈な「抱っこアピール」。「うわぁ、かわいいねぇ」と言われつつ、なんとミルクコーヒーをゲットする始末。このまま食いっ逸れがないニンゲンに育ってほしい。






2015年9月6日日曜日

雑貨屋と雑誌





現在発売中の雑誌「タンクマ」での掲載を見て、お店に来てくれる方々がちらほら出て来ている様子。本当にありがたいことです。

そういえば、誌面で「雑誌作りと店作りは似ている」ということを少しお話しました。たぶんあれだけでは伝わり難いと思うので、どこかの誰かのためにここで補足しておこうと思います。


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現在うちの店ではだいたい二、三ヶ月に一回、なんらかの展示会をおこなっています。例えばこれは雑誌でいえば、いわば巻頭特集のようなものだと思うんです。そのときそのときの時代の流れや嗜好、季節感やさまざまなタイミングを見極めて、思わずお客様が手に取りたくなるような、お店に来たくなるような企画を考えなければならない。これはもう雑誌もお店もまったく一緒です。

そして企画を考えたならば、今度はどうにかしてそれを伝えなければなりません。お店であればSNSやブログ、DMを絡めながら、集客を促す方法と、どういう商品なのかを取材してお客様に伝えなければならない。この、いわば仕込みの部分が濃ければ濃いほどそりゃいい記事になるし、いい宣伝素材になるし、お店であればいい接客に繋がるはずです。創る現場を見ているのと見ていないのでは、商品を宣伝する言葉の熱がまるで違います。それは雑誌の記事の文章の温度とて同じことでしょう。

通常、雑誌ではエッセイやらコラムなどの連載ものがあります。その記事が読みたいから毎号買う、なんてひともいたりすると思うのですが、店に置き換えるとそれは通常置いている商品のラインナップになるんじゃないかと思います。お店にとって、ここはいわば生命線ともいえるもので、何を置き何を置いていないのか、全体的な価格帯を含め、大体それらを見ればお店の考えというかレヴェルのようなものがわかるんじゃないでしょうか。もちろん雑誌でもそれは同じで、どんなひとにどんな形で企画や連載を持ってもらうかで雑誌の売り上げも随分と変わるはず。まぁ私見だと日本という国は、本当の意味でのライターが育ち難い土壌が在る気がするので(作家には世間的なリスペクトがあるけど、ライター対してはそれが少ないように思えるから)、なかなかそれも難しいと思うのですが。まぁそれでも著名なひとが書いているコラムがあると雑誌としても強いですよね。

もちろんお店にしても雑誌にしても、売れなければ、お客様に来ていただき商品が動かなければ、成立はしません。でもじゃあ売れるものばかり、売れることばかり考えていると、もっとも大切なコト、つまり、「なんで自分はこの仕事に従事しているのだろう。最終的にいったいなにをしたくて、誰に何を、届けたくって、この仕事にわざわざ時間を割いているんだっけ?」ということが見えなくなってくると思うんです。もちろん生活のためにお金のために仕事をする面はありますし、それのみを求めるひとがあってもそれはそれでまったくいいのですが、でも少なくともお店、特に個人店だとか雑誌を、ゼロから立ち上げ、自己のコアな部分を反映させながら何かを表現したり訴えたりしたいのであれば、やはり根底の部分で揺るぎない考えの土台のようなものが欲しい。自分にそれがあるのかどうか分からないながらも、そう思うわけです。

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・・・とまぁ、まだお店を始めて二年も満たない僕のような若輩者が、なぜにこうもつらつらつららと書いてしまったのかというと、たぶんどんな仕事同士であっても探してみれば何らかの共通点があるんじゃないか、と思ったからであり。考えてみれば自分の奥さんも現在はマッサージ店をしていますが、もとはといえば家具やら雑貨の販売なんかをしていたひとだし、じゃあその経験がまったく活きないかというとそんなことは全然ないわけです。正直、接客のイロハなんて、どの仕事で通ずる大切なものがあるのではないでしょうか。

僕自身、小さい頃から不思議だったことのひとつは「なぜ大人は世のすべての仕事を経験できないんだろう」ということでした。世の中にはどれくらいの数の仕事があって、そしてそのなかでどの仕事が自分に向いているかなんて、分かるわけがないんですよね。しかも一生は限られてる。それなのに、なんですべてを経験できるシステムがないんだろう、と。もちろんそんなことはどう考えても不可能なわけですが、でも捉え方次第でいくらでも発想は広がるんじゃないかな、と思うわけです。そしてそう考えると、いくつになってからのリスタートだって、少しはやる気が起きるのではないかな、などと。・・・というわけで、またいつリスタートしなきゃいけなくなるかもしれない不安定な店主は、日曜日の午後、ぶつぶつとつぶやくのでありますね。

2015年9月2日水曜日

豚軟骨とトマトのアジア風煮込みができるまで


もう数年前になってしまったけれど、ベトナムに行ったことがある。
なにせ食べ物がなにを食べてもすべからくウマかったのが印象的だったのだけれど、
なかでもとてもよく覚えているのがお昼の定食屋みたいなところで、
日本で言うとお惣菜感覚でテーブルに大鉢に盛られた数々の魅惑的な料理が並んでいて、
客は好きなものを好きなだけ取り分けて食べる、という感じで大変に素晴らしかった。
それを思い出したわけでもないのだけど、アジアっぽい料理を賄いで作ったので、なんとなく記してみようと思う。

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そもそも昨日は最後のマッサージのお客様が遅く、閉店から1時間ほど時間があった。
その時間を使ってなにかご飯でも仕込もうと隣のスーパーに行ったらば、レモングラスが安売りしてあるのを見つけた。1時間あるということは何かを煮込んだ方がいいだろうから、豚バラ肉の塊少しと豚軟骨とこれまた安売りのセロリをなんとなく買って来た。

いつものことだけど、別に特別に参照したレシピはなくて、
ただ頭の中には以前エッセイストの玉村豊男さんの本で見た、醤油と酢で煮込んだどこかアジアの豚肉料理があった(ちゃんとした名前があったけど忘れてしまった)。でもまぁなんとかなるだろう。

豚肉を塊のままなたね油で炒めて焦げ目をつけて、
葉とともに刻んだセロリ、潰した皮のままのにんにくと薄切りのしょうがとひたひたの水を入れる。

まずはそのまま煮込んで肉を柔らかくした方がいいのだろうけど、そうする時間もなかったから、多めの醤油とそれより少なめの酢、塩少々、一袋半分の適当に刻んだレモングラス、多めの黒砂糖(酒も味醂もなかった)と、ナンプラー・・・がなかったので、最近よく使っている天草の煮干しの粉をさらさらさらと入れる。あたまのなかでは「煮干しの粉+醤油=ナンプラー」だろう、と勝手に納得している。

火は中火から弱火へ。店のなかは豚と酢が煮込まれた、甘いような酸いような独特の香りで満たされる。この時マッサージをしていたスタッフのミキティはお腹がすいてすいて仕方なかったようだ。40分くらい煮込み、煮込みは冷めるときこそが味が染みて肝心と、そのまま冷まして家へ帰る。

朝、店に来る。なんとなく火をもう一度かける。豚の脂が浮いていたら掬いとろう、と思っていたのだけど、浮いていないのでそのままほおっておく。なんとなくまた40分くらい煮込んでみる。というのは、豚の軟骨が意外に硬く、どうもいい感じにならないからだ。

この時点でスープ(というか煮汁)を味見してみると、かなり醤油辛い。
うーん、それじゃあちょっと方向転換をしようと、ご飯を洗ってちょいとスーパーに行き、安売りのトマト二袋と卵4個を買ってくる。さて、いよいよ頭の中でようやく料理の形が見えた。

ご飯を炊く間に(というのはうちの店のガスレンジはひとくちなので)肉を一口に切る。
軟骨トロトロなんて時間は残されていないことにようやく気づいたからだ(ということはきっと二回目の40分煮込みも不必要だったということだ)。トマトも適当に一口に切る。

炊けたご飯をレンジから離し、新しい鍋を強火にかけ、切った豚肉とトマトを入れる。
トマトが徐々に煮くずれて来たら、煮込んでよれよれになったセロリとスープを徐々に足していく。ついでに残り半分の新しいレモングラスも刻んで足してしまおう。

ここから、そうだなぁ30分くらいだろうか。トマトとスープが相まってソースになるくらいまで強火で水分を飛ばす。ここで味見をすると、トマトと煮干しと醤油が一体となって、目の前にはどこぞのアジア大陸が広がっているようだ。もうちょっと何かで味を整えようか。でも今日はご飯にかけて食べるので、最後に卵を4個溶いて流し込んで、火を通しすぎずに、はい、おしまい。





食べてみるとスタッフの評判が驚くほど良かった。たしかに豚肉の甘みとトマトの甘み、煮干しと醤油の旨味が足されて、人懐っこいアジアの味がして美味しい。最後に卵を入れたのも味がマイルドになって正解だったようだ。そして自分の料理ではここ二、三年でひさびさに使った黒砂糖が効いている(普段はまず砂糖は使わず、味醂で代用する)。砂糖を入れるとなんとなく店っぽいというか外の味になるのだなぁ。これは知らなかった。なによりレモングラスを入れると、なぜか言いようの無いアジア感が増しておもしろいことも初めて知った。

今回はたまたま二日かけてしまったけど、もちろん普段の賄いはこんなことはなくて、さらさらと簡単に作る。というか、こう実況風に書いていくと大変なように感じるかもしれないけど、この料理だって本当に簡単。まるで散歩のように気の赴くままに料理をしていく感じがとても愉しい。・・・というか、本当に天草の煮干しの粉、商品として取り扱おうかしらん、と考えているところ。





2015年9月1日火曜日

夏が終わる





 なぜか最近、少しずつブログづいている。なぜだろう? たぶん、もう秋だからだろうと思います。なんといっても秋はいちばん好きな季節で、実はどこか感傷的なんだけど、それを覆い隠すように埋めるように文章や酒が消費されることになるわけで。・・・いや、待て待て。もしかして仕事がヒマだからかもしれないな。それだとしたらなかなかの問題だけど、まぁいいや。ともあれ、自分としてはどこかの店のニンゲンがあまり雑作もない、くだらないことをたらたら書いているのを読んだりするのが案外嫌いじゃなくて。すべてがすべて商売っ気に繋がることがそんなにいいとは思わないし、店のニンゲンが自分をアゲるためだけに書かれたような類いの文章が自分はあまり好きじゃあない。だから今回はできるだけくだらないことを書こうと思う。

 ということで、「夏の終わり」。毎年それを感じたその日には、スピッツの「夏が終わる」という曲をなんとなく聴くことにしているのだけど、どうやらあれが入ったアルバムが見つからなくて。しょうがないから別のアルバム(「惑星のかけら」)なんかを聴いている。それにしてもこの時期のスピッツは透き通っててやっぱりいいですね。まぁたぶんいまも変わらないのだろうけども。
 それはさておき。よく知り合いというか友達の女の子に「なぜにあなたの文章はそんなにも改行が少ないのか」と問われることがある。そんなこと言われてもよくわからないんだけど、たしかにそうだ。特にフェイスブックの文章は大抵は一息一筆な感じでいつも書いているので、もう文章がまんま塊となってしまう。というかそもそも本当に人に読まれている、という実感もあまりなくつらつらつららと書いているので(もちろん展示会のときなんかは別ですが)さらりと書いてまんまアップすることになる。そしてお店で「いつも読んでいます」という感じでお客様に直でお会いすると、かなり赤面することになるわけで。そうか。本当に読まれているのか。でもそうかといって、細かいところまでちゃあんと伝わっているかというと実はそうでもなくて、読み方も受け取り方も伝わり方も人それぞれなので、文章で伝えるということはすごく難しい。

話はまた変わって、ブーメランのように戻る。正直、自分の子どもにはどうこうなって欲しいというのはまったくなくて、限りなく「普通のひと」になって欲しい。だから、なんなら七夕の願い事にもそう書いたくらいだけど、でもできたらこんなイメージのひとになって欲しいなぁというひとが自分のなかには数人いて、そのなかのひとりがスピッツの草野正宗、そのひとであり。まぁどう考えても普通のひとではなく、アブノーマルだけど、まぁそれでも。というか、昔からあちこちでよく言ってるけど、自分はこのひとの歌詞が個人的にいちばん好みでしっくりくる。いつだって遠くどこかにある小さな世界を大切にしていて、痛いこととか競争がなんとなく嫌で苦手で、限りなくセンシィティヴだけど、かといってただただド・センチメンタルというのでなく、でもちゃんと深く深くスケベでエロである(ここがとても大事)。理想のもうひとりはなぜか日ハムの大谷選手なのだけど(もちろんプロ野球選手になってほしいということでは断じてまったくなくて、あの飄々とした佇まいというか)まぁそんな話しはどうでもいいか。それにしても。ああ、もうほんとうに夏が終わりますね。・・・という感じで、このどこにもたどり着かない文章も終わりを告げる。