2016年2月3日水曜日

『1998年の宇多田ヒカル』

・・・とまぁそんな宣伝めいたことばっかり書いていても仕方ないから、最近読んだ本のことでも。『1998年の宇多田ヒカル』という、現在巷の一部では「預言書」と言われている、かなり売れてる一冊。



といっても、一部で話題だから買って読んだわけではなくて、そもそも僕はこの宇野維正さんという映画・音楽ジャーナリストが昔から好きで、この方が雑誌『ロッキングオン』に居た頃からのファンだった。初めて本を書いたと聞いて、何はなくとも手に入れて読んだというわけだ。日本ではそれこそ小説家なんかには「好きな作家」という位置があるけども、なかなか純粋にライターで「好きな書き手」というのは少ないような気がするので(正直自分でもそんなに居ない)、まぁ珍しいことなのかもしれない。

1998年というのは、CDが日本で一番売れた年。そして宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみという、1998年から現在も突っ走り続けている歌手たちがデビューした年。彼女たち同士の、実はなかなか濃い相関関係(特に宇多田ヒカルと椎名林檎の濃い関係は知らなかった)、彼女たちの当たり前すぎて忘れがちともいえるそれぞれの偉大さ、そして2016年現在から俯瞰して見えてくる音楽業界の在り方なんかが、とても読みやすい文章で、書き手の想い入れをできるだけ削ぐかのような落ち着いた文章で(でも内に秘めた熱い想いはそのままに)記してある。当時の渋谷系や小沢健二のことについても触れていて、ついこないだ復帰ツアーを宣言したオザケン、そしてついに今年NHKの朝ドラ主題歌で復帰を果たす宇多田ヒカルのニュースと見事にリンクした、つまりはオドロキの「預言書」というわけだ。元々書き手はどちらの情報ともリークしていなかったそうなので、これは本当に凄いことだと思う。流れが起こる時には、こうやって本当にすべてが繋がって起こってしまうのだから。ウワサ通り、2016年は「音楽の年」になるかもしれない。というか、自分は根っからの宇多田好きなので、ただただ本当に嬉しい。

「あれから 僕たちは 何かを 信じてこれたかなぁ」。この本でも引用されているけど、スマップの、スガシカオのこの歌詞がぐるぐると脳裏をめぐる。読んでみると、みんなそれぞれ感じることがあるだろうけど、僕自身のことでいうと、やっぱり今現在、この地方における音楽とかカルチャーの在り方について、つい考えてしまった。1998年と2016年現在。20年近くのなかで、過ぎ去ったものと、もう元に戻らないもの。ここ熊本で、1995年に2フロアでオープンしたあの眩しいタワーレコードが閉店したのが2011年。ちょっとキーを叩いてみるだけで、熊本のタワレコが無くなったことを、現在でも嘆いているひとがいかに多いかということに驚く。いまやこの街の小さな音楽ショップもだんだん無くなり、もうほとんどここはカルチャー砂漠状態。アナログレコードブームなどと言って喜んでいるひともいるけれど、本当にそうなのか。どうも店とお客さんがきちんと定期的にキャッチボールをしながら、日々うごめいていくような本物の流れではない気がする。少なくとも、ここにおいては。少なくとも、僕の考えでは。いまに、いやもうそうなってるだろうけど、「CD?それってなんですか?」という世代も出て来てるだろうし、「基本、音楽なんて買うもんじゃないでしょ」という話にこれからますますなっていくはず。1998年のあの狂騒を知るものにとって、そんななかで出来得ることはなんなのだろうか?そもそもそんなことが、まだあるのだろうか?

・・・というか、本当にこの地にカルチャーは無いのだろうか。ようく考えてみると、無いことは無いのだ。僕の周りにだって小さいながらもそれはある。例えば「TSUTAYA」におけるレンタル落ちDVD、CD漁りの中に。例えば『長崎書店』全体とその情報豊富なDM置き場に。例えば日々僕が更新する『vertigo』のFBの文章に。例えば友人でもあり仕事仲間でもある上妻勇太君のすべての活動のなかに。例えば近所の花屋さん『AYANAS』の寺原君が主催する音楽イベント『CURIOUS』のなかに。

ただし、それはあくまで局所的なものだ。全体としてはカルチャー砂漠状態こそがこの2016年の地方の現実、現状であって、それはもう仕方のないこと。状況そのものを嘆いても仕方ない。きっと話はそこから、なのだ。そしてそんななかで自分自身も雑貨店というものを商いしていかなければならない。そのことを改めてキモに命じよう。この本も宇多田ヒカルの復帰によって、この2016年のシーンがどう変わるのかが危惧されつつ終わっている。というわけで、今年はうちの店自身もカルチャーの発信が多めになるような気がしているのです。














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