2018年8月19日日曜日

帽子はひとつの旅である

「お前はなんでハットを被るの?」

いつだったか、かつて自分の父親にそう聞かれたことがある。・・・いや、その父はまだちゃんと生きているのだけど。



その父も別段帽子が嫌いなわけではないみたく、よくなんらかの帽子を被っているようなひとなのだけど、でもそれでもやっぱりハットというのはまた別な世界観を持ったもので、例えばキャップをいつも被っているひとに「なんであなたはキャップを被るの?」とはあまり聞かないだろう。つまりハットって、それくらいそれ相応の世界観のあるものなのだと思う。



今回のDMにも書いたのだけど、なぜハットを被るのかとの問いに、「帽子はひとつの旅である」と答えたひとがいた。映画監督でエッセイストの伊丹十三。彼は「帽子とは外の世界でしょ」、とまず言い切る。いつもの自分、つまり内側の自分というのはごくごく親しいひとたちと馴れ合っているだけの人間なのだが、外の世界というのはそれはもうまったく違う。そこは他人と他人がせめぎあう、いってみれば大人の世界。自分の欲望を自分でコントロールし、孤独に絶え、父の父たる言葉を我が子どもに伝える、タイヘンな世界なのだ。ハットというのは、そんな外の世界の象徴なのだ、と。

そして最後に、なんでそんなしんどい想いまでしてハットを被るのか、というと、そりゃあ退屈で仕方ないからだ。人間というのは自分に死ぬほど退屈していて、いつも日常から非日常への脱出を企てる。だからして、つまり自分にとって、帽子はひとつの旅である、といえるのではないか、と結ぶわけだ。



なんとまぁ素晴しい文、というか明晰過ぎる思考だろうといつも惚れ惚れしてよく読み返すのだが、でも自分の場合はもっともっと無邪気だなと思う。








父からなぜと聞かれて考えた時に、頭の中に数人、そして例えば映画の数シーンが浮かんでは消え、例えばそれらがいまの自分を構成しているということなのだろうな、とぼんやり想ったりした。

例えばとあるときのローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、そしてTOKYO NO.1 SOULSETの渡辺俊美、そしてその父たる存在のジョー・ストラマー、例えば手がけたその曲名がいまの店名にもなっているリバティーンズのピート・ドハーティ、さらに幾多の数えきれないレゲエアーティスト、そして星の数ほど輝くようなどこかのルーディーたち。また例えば『ゴッド・ファーザー』のアル・パチーノ、そしてまた例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のロバート・デニーロ。そしてもちろん伊丹十三。・・・あ、最近だったら『おさるのジョージ』に出て来る、あの黄色い帽子のおじさん。などなど、無邪気に挙げていけばキリが無いけれど、自分のなか、そして後ろには、そんな数々の恩人(すべて自分の人生の格好良さの指針となるようなひとたちなので、それはもう恩人だと言っていい)がいて、きっと自分はその系譜にいたいのだ、という証なのだと想う、つまりは自分にとってのハットというのは。





とまぁそんな無闇矢鱈にアツく、ハットを被る意味なんてモノを考えなくとも、ぜひとも観に来て欲しい『hat maker KOHSUKE INABA』の販売会&受注会を昨日からやってますので、ぜひとも来て欲しいです。







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