2015年2月18日水曜日

自分以上のもの




移転しました。

・・・と書き打ってみるが、かなりブログはご無沙汰であり、その理由はといえば、長らくMacが壊れてしまい、パスワードとかアドレスが分からなくなり、ログインできなかったというていたらく。パソコンだとか携帯が壊れただけでなんとまぁいまの生活の崩れることか。にしてもよく思うのだけれど、現代人というのは本当に自己管理が必要なのだなぁ、そして、たらたらと生きているようにも見えるあのひともこのひともあの子もあいつも、その辺の自己管理というやつはしっかりできているのだろうなぁ、おれってその辺本当にだいじょうぶなのかなぁ今後は?ということだけど、まぁ仕方ないですね。

前の店は自分たちでできるところは内装もやり、かなり手作りの荒々しい、良く言えばハンドメイドで心のこもった、悪く言えばちょっと薄汚れた店であって、いや、そうだからこそ、そしてなんといっても初めての自分の店であるからして、かなりスタートから力が入っていた。・・・ように今思えば想う。中に入れる什器とか、ショップカードとか、「~でなければならぬ」、という感じが強かった。結局は1年とちょっとという期間をやって、お客様のなかには「まだそれだけだったのですか! もっと長くやられていたのかと思っていました!」という、お褒めなのかどうなのか自分でもよく分からない言葉をいただいたりしたけれども、とにかく今度の場合はどうもそういう感じでもなく、「うん、まぁいいんじゃないですか」という妙な余裕の感じが自分の中にどうにもあるようだ。家賃は確実にあがり、経済的にいうと結構な土俵の瀬戸際だが、まぁ心持ちはそんな感じである。そんなことを店の人間がここに記すことがいいことなのかどうかは相変わらず自分でも分かりかねるけども、でもこれは僕の店であるからにはその辺のことも自分自身でも考えていきながらお店をやっていきたいので、まぁそれはそれで良いのだと思う。

ただそれは初めての気負いが抜けたからとか、ある程度は慣れたからとか、なんといっても初オープンではなく移転したからとか、それらすべて当たっている。が、それより何より、昨年1年さまざまな創り手のひとたちと映像とかDMとか企画を創って進めていくうえで痛感したことと無関係ではないはずだ。それはつまり「自分ひとりのなかでできることなんていうのは、所詮自分以上のものにならないのではないか」みたいなことであって、いくら自分のこだわりのみで進めてもそれには結局は限界があるよなぁ、かえってなんだか狭苦しい気がするし、やはり他人の入る余地があってそれが入ることによって、1+1=2になって、そのまた倍になって倍になって、自分だけでこしらえただけでは到底見ることのできなかった景色を見ることができるのだろうなぁ・・・ということなのかもしれない。「自分は所詮からっぽの容れ物にすぎない」といったのは亡くなった映画監督の伊丹十三さんだけども、なんとなくそういう感じというか。特にお店なんてものはやはり最後に形作っていくであろうはお客様であり、いくらしゃっちこばって自分をだしてみてもなんだかね、ということも感じているのだと思う。うーん、大人になったのか? うん、そういうことなのかもしれない。


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