2017年1月26日木曜日

インスタと「雰囲気」




最近はフェイスブックやらインスタグラムで日々、そしてたまにこのブログでそれぞれに文を書き散らしているので、なんだか自分でもよく分からないことになってしまっている。でもまぁなにしろ書きたいうちが書けること。なのでもあるのだろうから、それで善しとしている。そのうち飽きっぽい自分はどれかを辞めてしまうだろうし。

なんとなく思うところあって最近はインスタでもやけに長い文章を書いたりしている。どうせ携帯だからこんな長いの読まないっしょ、なんて思って書いてたらば案外と「読んでますよ」とか言われたり。でもなんというかここでも書いたのだけど、最初から自分はなんだかどうもこのインスタに馴染めなかったような気がするのだが、最近なんとなくその理由のようなものが分かってきた気がしていて、そのこととそんな長い文は無関係ではないみたいだ。

インスタというのは、端から眺めていると一点から波及する感じがやたら強い。例えば東京のスタイリストだかトレンドセッターみたいなひとが、ある店に行ってあるポストしては周囲が「おー!」となってフォロワーがガッと増えてひとびとが連なっていったり、あるいはローカルながらも目と鼻と舌の肥えた周囲から絶大なるセンスの信頼と憧れを受け持つセレブママがある店に行ってあるポストをしては他のフォロワーママたちが鼻息荒く追従したりする。そうやって徐々に、あるいは突然「バズって」いくわけである。それはそれである意味現在におけるひとつの口コミの形ではあるのだろうから、僕は遠目にみながらも別にぜんぜんいいんじゃないかと思っている。

といって、そういうインスタなんかでの周囲の「流行り」というか「バズり」を知って、まだそれをしていない店が慌てて心配して「やっぱりうちもするべきなんだろうか・・・」なんて悩む話を聞けば、「いや、それはどうだろうなぁ」と考えてしまう。そもそも自分の店は幸か不幸かまだそんなバズの気配の波もなく、もしそんな波に乗ったら乗ったでめんどくさいだろうし(いやそりゃ取り扱わせていただいている作品はどれもひとつでも多く売れてほしいですけどね)、というかそもそも僕はよく思うのだけど、きっと周囲がインスタのフォロワー数なんかから「いやー、バズってんね、あの店」とか勝手に思っていたりするが、たぶん実は思っているほど忙しくて忙しくてヤバいくらいに仕方ない、というパターンはそうそう多くはない気がする。前も書いた気がするけど、SNSのカウンター数と現実のひとの動きとは必ずしも一致しないからだ。きっとそれはお店をやっている人間ならば大方は分かってくれるはず。だってたまにうちの店なんかでも「いやだってこの商品だったらばもうお客さん殺到してると思って」みたいに言ってくれる方がいたりするが、そんなことは悲しむべきことかほとんどない。まぁうちの店はあいもかわらず、ごめんねマイペースなんでその辺は気にしてないんですが(いやいやちゃんとどっかで焦ってますけどね)。

でもひとつだけインスタでどうしても感じてしまうのは、どんな店でも本当に「雰囲気」が多いよなぁということ。特にいまはデジカメ様様があるので、誰でもすべからく「いい雰囲気」で写真が撮れてしまう。・・・つって自分も最近メルカリでデジカメ買ったけどさ。だからまぁこれは自分に対する自戒でもあるのですが・・・そんでもってインスタという箱でみると、これまたなんだかどれもこれもこぞって「美味しそうに」「かわいく」「おしゃれ」に見えてしまうのだな。そもそもそれっていいことなのだろうか? これが巷でウワサの千人万人億人インスタシャレオツ説。・・・うんまぁ間違いなくいいことではあるんだろうけどさ。

でも売る側からすると、そうだからこそ「雰囲気買い」みたいな流れが出て来るのではないかなと思ってしまうのも事実であって。インスタでの「雰囲気」のみを見て感じて店に来て、あるいはその「雰囲気」でブランドや作品や商品の名前をインプットし消費してしまって、結局は売り手や創り手の本当の想いはここにおいてスルーされていく。もちろん売り手や創り手は、基本は買い手やお客様を選べない。そんなことは当たり前だし、売り手や創り手の想いを分かっていてもいなくても、いただくお金はそもそも一緒である。そういう意味ではたとえ「雰囲気買い」をされたお客様であっても、大切なお客様であることに変わりはない。でもよく考えてみると、特に売る側からすれば、本当にこちら側の「想い」が届いて買っていただいたのかどうか、というのはかなり大きな問題であるはずだ。なぜかといえば、それは次に繋がるかどうかという問題を含んでいるから。つまりはその店のリピーター、常連様になってくれるかどうか。本当の意味でその店のお客様になるかどうかという問題には、やはりそれぞれのそんな「想い」が関係してくるような気がするのだけど、どうなんだろうか。

そしてもう一点確かなのは、その「雰囲気」だけでは僕らのような、すこしの口笛で吹き飛んでしまうような、しがない小売店は絶対に資本に勝てないということ。現在では資本がある側も当たり前に同じように「雰囲気」でせまってくる。そして「雰囲気」はたしかに「雰囲気」でしかなくって「雰囲気」以上のものは産み出さないから、数や大きさが強い方が勝つに決まってる。結局のところ、同じやり方や在り方や方法論でこちらが勝てるわけが無いと思うのだ。だから僕らは僕らなりの武器をそれぞれこぞって探さなければならない。たぶんこれはどの小売店や個人飲食店でも抱える大きな命題のような気がするのだけど、これまたどうなんだろうか。・・・つって僕もそんな武器なんて持たないですけどね。インスタぐらいであいかわらず考え過ぎなのかもしれませんけどね。でもとにかく少なくとも自分の店に関しては変に無闇に「雰囲気」のみで知られるくらいならば、ひとりでも多くのコアで偏屈で奇特かもしれないあなたのようなひとにこそ知ってもらいたいな、と常々思っているのですが。


2017年1月20日金曜日

ある日の日記



昨日は閉店1時間前の19時くらいに、あるカップルのお客様が突然店に訪れた。初めてのお客様だ。「あんまりこれくらいの時間帯に初めてのお客様は来ないのだけどな・・・」なんて思いつつ、様子を見ていたらば、なんというかどうも見れば見るほど、普段のうちのお客様のラインとまったく違うというか、二人とも年齢が若めだったからかもしれないけども、「もしかしたら店を間違って入っちゃったのかしらん」と思える様な二人に見えて来た。なんせ男の子の方はキャップを後ろに被っちゃってるし、女の子の方もちょっとエクステオーバー気味なギャルルルル的かわいさが垣間見えて、なかなかうちの店には来ないタイプの方たちなのであった。まぁなんつっても典型的差別的なダメ店員ですからね、僕は。

そうはいっても、現在店では来ていただいたお客様にチョコやジャムの試食をしていただいていて、こういうラインが一番難しい。うちの店は大抵SNSなんかで現在の状況を知っていらっしゃる方が来られることが多いので、あんまり飛び込みの方は多くないのだ。しかもここでヘタに試食をしていただき迷惑がられてもなんともアホな店員だしなぁ。「うーん、これはどうしたものか・・・」とPCをいじくるフリをしながら考えていると、勝手に失礼ながら驚くことに「ひとまず、これ。ください」と言って、男の子の方が金澤宏紀くんのカップをレジに持って来た。そして「ええと、他も見ますから、ちょっと待ってくださいね」なんてセリフを落としつつ、二人して他の商品もあれこれ見てくれている。結局のところ聞いてみれば、どうも男の子の方の働く会社がこの近くにあって、よく店の前を通っており、前から気になっていたのだそうだ。そうして今日、思い切って入ってみたのだと。「あいたたた・・・。すまぬすまぬ」と椎名誠的になって、あわててコーヒーを淹れて、チョコとジャムの試食をゆっくりしていただいた。結果的にすごく気に入っていただき、チョコやジャムだけでなく、女の子には木ユウコさんのカップまで買っていただき、典型的良くない差別的なこの店主は猛省したのであった。まぁかのように接客とは難しいが、興味深くかつ面白愉しいのですね。




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なんとなく嬉しくなった僕は、その足でひとりで『Peg』に行った。知ってる人ももはや多いと思うが、『Peg』といえば、自分のなかで現在この地でいちばんヒップでハイブロウで段違いにぶっ飛んだビストロであって、ここの何が凄いって食材やワインまですべてもすべてオーガニックで厳選しながら、まだ若き希望に満ち満ちたひとりの青年がたったひとりで店を切り盛りし、芯に貫かれたフランス仕込みの料理をきっぱりと出すところだ。しかもその若者はどうやらスケーターと来てる。「ストリートとフレンチとオーガニック」という組み合わせだけでもう持ってかれなければ、たぶん僕はそのひとのセンスを信用はしないだろう。といって僕もまだこれまでに3回くらいしか行っていないし、その青年であるひろみくんとはまだそんなに知り合いでもないのだけど、なんで勝手にひろみくんとここで書いちゃうかといえば、なんせその名は偶然僕の奥さんの名前でもあるからで、なんだか勝手に近いのだ。そしてこの若き創り手はオーガニカルな野菜の創り手の話になるともうアツくなってアツくなって止まらないところも完全に好感が持てて持てて仕方ない。僕も以前からそんなひとたちの仕事ぶりを取材しているので、あまりにいろんな話に頷けてしまうわけで。



そして更にデカいのが店に流れている音楽で、ある時はディープ&ディープなルーツレゲエであったり、昨日は昨日でつい先日僕も自分の店でかけて実はこころで泣いてたダニー・ハサウェイのアルバム(あのライヴアルバムな。リトル・ゲットー・ボーイな!)が偶然かかっていたりと、まぁなんだかここまで来るとそんなに話さなくても絶対通じる間違いない感があるというか。そういえばあんまり嬉しくなって最近ハマってるバンドの動画なんかも勝手に見せちゃったり(なんだかこの心地よいヴァイヴって勝手に『Peg』っぽい)。もうすぐ始まる企画展のDMを渡す目的もあったのだけど、でもひとりでふらりと行って、分厚くて限りなくナチュ甘ウマい「ごぼうのバルサミコ煮」やら生命の詰まった「野菜と豆のスープ」やらを食べながら、これまたガチでナチュナチュな果実味溢れんばかりの数々の自然派グラスワインを飲み干しては4000円いかないくらいなんだから、こりゃ誰だって通うだろうと。でも通っちゃったらばますますひろみくんひとりで大変なんだが、でもやっぱり通うだろうなぁと。昨日は黙ってひとりで行っちゃったから、“飲み友久朋”ことカメラマンのえとうくんにはラインで怒られつつ。





それにしても現在、店で置かせていただいてる「ジャムのようななにものか」を産み出す、阿蘇の『オルモコッピア』の二人もそうだけども、ここ熊本でも若い人たちのお店でオーガニックをベーシックに据えた店も増えて来た。ここで勝手に自分で判断してしまうと、きっと彼らは言って見れば「ネクストオーガニック世代」みたいな感じで、あくまで堅苦しくない考えで当たり前のようにナチュラル思考をナチュラルに展開し貫いている。素材はできるかぎり自分の限界までこだわるが、だからといってそれをさも「こうあらねばならぬ」みたく押し付けたりしないし、なんせ一番大切なのは心地よく店で過ごしていただけること、つまりは心地よい店とお客様との関係性である、と知っている気がする。そこには店自体の雰囲気ももちろん関係するし、何より料理を産み出す創り手側がその仕事に誇りと愉しみをしっかり持っていないと本当の意味で心地よくなくね? みたいなことをしっかり本能的に分かっている気がするんである。だってお店側が「絶対こうじゃなきゃおかしいですって。絶対こうあるべきなんですってば。それ以外の考えはおかしいんですってば」みたいに頑過ぎたり、「イヤだなぁ、やりたくないなぁ、愉しくないなぁ」とか思っていたらば、どんなに材料にこだわっていても本当に心地よい場になれるわけがない。料理だって本当の意味で美味しくなるわけがない。

で、いつも思うことなのだけど、これはなにも店だけでなくってどこぞの会社や企業にも通じる話であって、やっぱり心地よい関係性を大切にする会社や企業は、心地よい仕事を産み出しているように思う。そこは実をいうと家庭も同じかもしれない。なんかほら、例えば他人の夫婦や家族と短い時間でも一緒に居ると心地よいかどうかすぐ分かってしまったりしません? そこの家庭の夫婦の雰囲気や子どもと親の関係性を直に感じれば、なにかが分かってしまったり。そういう目に見えないヴァイヴのようなものこそは、ちゃあんと伝わる人には伝わっているし、ばれちゃうひとにはばれちゃうんである。して、すごいのはそういうヴァイヴというのは、感じ取れている周囲のひとびとには少しずつだけど確実に伝わって行くので、心地よいヴァイヴを持ったサークルがそこに描かれることになるということ。だんだんと広がっていくのですね。もしかしたら昔の古き良き商店街って、そういうものだったのかもしれないなぁとも思ったり。いずれにしても店って、それがどんな店であっても実はそんなヴァイヴの伝え手というか担い所になれるんじゃないかな、と思っている。うちの店もそんなヴァイヴを少しでも発信できていればいいのだけど。どうなんだろうか。

2017年1月19日木曜日

仕込みの人生への祝福



今日、なんとなくお客様から「どうやったらば文章を書くことってできるのですかね」のような質問を受け、じつは僕はその答えを持たないのだけど、だからこそたぶんこうやってまたでたらめなる文章を重ねようとしているのだけど、でもそういえば最近ちょうど考えていたことがひとつ在ったな、と思い、そのお話をした。そのことはきっとうちの店が取り扱う、すべての創り手の方たちに通じることのような気が(勝手に)しているので、それを2017年最初の文章にしてしまおうと思う。

例えばそれがまっとうな飲食店であれば、それがどんな種類の飲食店であっても、彼・彼女たちはいつであっても「仕込みのこと」をあたまのどこかで考えているはずだ。たまの休みであっても、定休日であっても、あるいはたとえ正月であったって、あたまのどこか端っこの方に料理の仕込みのことがきっと在る。客や他人は当たり前にテーブルに並んだ華やかなる料理自体にスポットをあてがちだけども、でも料理とは7、8割が仕込みだ。つまり、料理人とは仕込みの人生であるといっていいだろう。

それと同じように言わせていただけるなら、自分にとって文章も同じ様なものだと思う。常にどこかであたまのなかで文章を書いている(仕込んでいる)。いつもどこかで文章を綴り、そのことを考えている。というか、考えてしまっている。自分のあたまのなかを割って他人に見せ比べられたら、たぶんちょっとおかしいんじゃないかなと思う。でもそれは仕方の無い、ある種、業のような、星周りのようなものだ。

そしてそれはきっと器を産み出すひとたちとて同じであって、きっと彼・彼女らはいつであっても自分の作品である器のこと、あるいはそれを創ることから逃れられないはずだ。休んでいる時であっても、必ずやあたまのどこかに作品のことがあって、考えていないようであっても考えている。つまりそれはもうすでに、そこで作品の仕込みが行われているといっていいのではないかと思う。つまりはまぁ彼・彼女らも仕込みの人生であると言ってもいいだろう。そして彼・彼女らも美しく煌びやかな作品ばかりが表だって取り上げられるが、普段は泥まみれになりながら作品を産み出している。あたまのなかの仕込みの段階から考えると、凄まじい時間が積み重なっているかもしれない。でもやっぱりあんまりそんな影の部分は語られることはない。そしてそれはなにも器だけじゃなくって、日々なんらかの作品を産み出そうとしているあくまで真摯なる創り手の人間全般にいえることだと思うのだ。

でも僕はここでただただ創り手が偉い、と言いたいわけじゃない。というか、そんな彼・彼女たちはなぜかわからないけれど、そういう道を選ぶしかなかったのだ。きっと。気がついてみたら、そんな仕込みの人生を選んでしまっていたのだ。たぶん。好むと好まないに関わらず。あるひとは銀行員になり、あるひとは教師になり、あるひとは料理をつくり、あるひとは器をつくる。そしてあるひとは文章を綴る。別にそこに偉い、偉くないとかは存在しない(いや、偉いとか考えている人間もなかにはいるのは知ってるけど、大抵そんなやつに限って大したことないのがこの世の常だ)。

そして僕はこの店において、そんな彼・彼女たちの希有で奇妙なる仕込みの人生を断じて祝福したいと考えている。いや、というか、そこに理解あるお客様という仲間たちと一緒に祝福したいと思っているのである。それがこのvertigoという店のコンセプトであり、願いであり、使命である。たぶんそれはいつになっても変わることはないだろう。何の因果かわからぬけども、彼・彼女たちはそんな仕込みの人生を選んでしまった。そしてこの瞬間たったいまでも彼・彼女たちは作品と呼ばれるべきなにものかを仕込んでいるに違いないのだ。だから、ほら。やっぱりここで祝福しようじゃないか。そう思うのです。