今日が今年最後の営業日。とかなんとか書いてみても実はオープンしてまだ二ヶ月。ようやく雑貨屋らしくなってきたかなぁ、というくらいだ。
とても不思議だ。二ヶ月前はカウンターの外にいた人間だったのに。お店のカウンターの内と外。店員と客。その立場を考えてみるととても奇妙だ。今までいろいろなお店に客として行っていた人間がある日なんらかのお店を出す。すると途端にお店側の人間になる。そしてカウンターの内にいるだけでそのひとは何らかの光を浴びることになる。あるひとは雑貨屋の光を浴び、あるひとはカフェの光を浴び、あるひとは洋服屋の光を浴び、あるひとはバーの光を浴び。そこには脚光があり、憧憬があり、羨望がある。自分もそうだったから分かる。
それとともに「なぜあいつにできたのだろう」という想いも感じる。「資金はどうしたんだろう」とか「仕入れ先はどうしたんだろう」とか。「嫉妬」と「羨望」は紙一重だ。でも答えは簡単だ。当たり前だけど、お金は地中に埋まってるわけでも空から降ってくるわけでもないので、なおかつ自分はお金を貯める力が全くないので、そうなればお金があるところから借りるしかない。銀行さまさまだ。仕入れ先は以前から自分が客として行っていたところもあれば(ここで客が取引先に、店が仕入れ先に変化する。これも不思議というか、面白い体験だ)、その後調べて行き着いたところもあり、偶然出会ったところもある。
数年前、ベトナムに行ったことがある。そこではいろんなおばちゃんたちがひとりで店を出していた。店、というか屋台でパンを売ったり、お菓子を売ったり、あるおばちゃんは屋台どころか地べたで炭火で何かを焼いて売ったり。なんだか今日から自分でも誰でもお店をやれそうな勢いだった。事実、やれると思う。そしておばちゃんたちはみんな貧相じゃなくて笑顔が良かった。生活は苦しいのかもしれないけど、店は壊れそうな屋台だけど、そこになぜか貧乏感はなかった。日本に帰って来て、「この違いはなんなんだろう」と散々考えたことを思いだす。何故ここでは店ひとつ出すのにこんなに足取りが重いのだろう。なぜリスクとか嫌な言葉をすぐ持ち出してマイナスから考えてしまうのだろう。なぜやってみて、だめならいいじゃんってならないのだろう。国の経済状況や成熟の度合いの違いとは分かっているけど、でもそれでも正直言ってベトナムのあの「ひとまずやっちゃう感」がひどく羨ましかった。考えてみたらあのおばちゃんたちもカウンターの内、になるのか。
結局はどっちかというと、羨望とかよりか、「自分もやってみたいな。これ、できるんじゃないかなぁ」と思えるような店にしたいのかもしれない。オープンしてたかが二ヶ月。そのくせ何言ってんだ、来月ちゃんとやってんのか。来年、店あんのか。みたいな批判は自分のなかにも確かにある。でもこれは、いわば店舗を運営していくもののドキュメンタリーだ。実験だ。お店は本来であれば画一的でなく、人の数だけのやり方や考え方、があっていいはずなのだ。ちょっとおかしな店がたくさん存在するほど、その国や街はとても豊かであると僕は信じて疑わない。