村上春樹の小説に『回転木馬のデッドヒート』というのがあって、そのなかに「プールサイド」という短編がある。僕は昔っからその話がなんだか好きというか気になっていて、ことあるごとに読み返すのだけど、そして最近もまた読もうと思ったけどもどうしても家で見つからない。震災があって引っ越して、もうなにがどこにあるのかさっぱり分からなくなってしまった。そうやってまたブックオフなんかで買ったりするのだろうなー。まったくもう。やれやれ、である。
さぁ果たしていったいこの話のどこの、なにが、自分を撃ったのか。僕もあんまりわからなかったんだけど、最近ちょっとだけ分かってきた気がした。といって自分には若い愛人もたしかいないはずだし(と周りをきょろきょろみる)、性的な満足なんぞもよく分からないのだけど(とさらに周りをきょろきょろみる)・・・いやいや、うーんと、そういうことではなくって、例えば自分の周りにはなぜか30歳くらいのひとたちが多くって、最近結構いろいろと話すことが多い。例えばこれからのこととか、これまでのこととか。いろんなひとがいてそれぞれだけど、やっぱり30くらいって結構漠然としてて、ちょっとこれからどうなるんだろか・・・と感じているひとも当たり前に多くって。それは僕もそうだったからよく分かるわけで。自分なんて20後半で周りに遊んでくれるひとが居なくなって東京に行った人間だから、スタートだってあまりに遅くって、もうほんと、まったく参考になるはずないんだけど、でもこういうのは結局自分の経験しか語ることはできないし、それしか説得力がありえないので、なんとなく自分のことを話すことになる。
いろいろありながらも僕が店を出して三年目という事実を話すと、ひとによっては心底感心してくれたりもする。店を出した、続いている、という事実は少なからずいちおうはひとによっては輝きに見えたりもするようだ。ひとの見え方って実に不思議なものだ。まったく、そんなことないのだけど。ふらふら、ゆらゆら、不安でいっぱいなのだけど。でも僕が30のときに僕と同じ立場の40の人間と話したら、そりゃあ同じ想いになったと思う。そして、そんな時だ。あの「プールサイド」という短編を想い出す時は。少しだけあの話が分かったような気がする時は。「得てしまったことで失うもの」。そんな言葉がぐるぐる頭を駆け巡るというか。
自分は40になって何かを手に入れたのかもしれないけれど、もうあの頃の不安で不安で仕方なかった、何にも無かった頃には戻れない。あの時のヒリヒリした感じとか心情とか、誰といつ飲んでも、どんだけ飲んでも結局は自分のふがいなさに戻って来るあの堂々巡り。それこそ『回転木馬のデッドヒート』。何回飲んでも最後は大抵同じ話になる。最後の最後は「・・・・・」で終わり。だいたい同じ不安を抱えているヤツとしか飲まないので(最高に幸せなやつとなんて飲むわけが無いし)、そりゃ飲んでも飲んでも同じわけだ。そして不安で仕方なかったあの時なんて、たったいま想い出したくもないのだけど、でもそれ以上に「もう戻れないんだよな」という想いもたしかに強くある。「そこまで行き着く過程こそが大切なんだよ」とかどこかの誰かはよく言うが、そんなの過ぎ去ってしまったヤツだからこそ言えるわけで。少なくともそんな言葉は自分には吐けないのである。・・・ん、ちょっと待て。ということは、まだ俺はあの堂々巡りのなかにいるということなのだろうか。