2019年7月7日日曜日
ジョージのしゅいとう
子育てに正解はない。
・・・そのことばを呪文のように唱えながら過ごしている。今日も。
もうすぐ3歳になる下の子の性格がひどく頑固で、どうにも手に負えない時がある。まぁ上の子の時もそうだったけど、ことばがきちんと出だして、お互いほんとうに意思疎通ができることを自ら知るようになると、まるで今までがウソだったように怒りの靄が晴れることがある。彼もそうだと思いたい。
「ジョージのしゅいとうは?」
先日もそうだった。家にお客様が来るので、夕方いよいよご飯の準備をしようとしていると、牛乳を飲む時に愛用のおさるのジョージの水筒で飲むといって、彼が聞かなくなった。
その水筒はその日、僕がうっかりお店に忘れてきたせいで、家には無かった。取りに帰る時間も余裕もない。それは無いんだよ、取りにも帰れないんだってば、と僕がいくら説明しても泣きじゃくってひとりバタバタと暴れるばかり。果物食べる?アイス食べる?のオトナの誤魔化しもまったく効かない。彼は時に訳もわからず癇癪を起こすことがあって、どうやら今回もその一歩手前のように思えた。もう考えただけで気が滅入る。
お客様も来るし、ご飯も作らなきゃいけないし、奥さんも仕事で僕ひとりだし、もうどうしようもなく、僕は僕で「んもう、ウルサいよ。それは無理なんだって。現実を分かれよな」と彼の怒りの直線をさらに怒りの直線で返して、一向にラチがあかない。虚しく時間ばかりが過ぎる。ああ、どうすればいいのだ。
…でも、である。でも、ふと改めて考えてみれば、どう考えても悪いのは持ち帰るのを忘れたこちらである。家にあると思い込んで、それに期待して泣き騒ぐ彼に罪は無い。それを怒りに任せて、ひたすら無理なんだと、いくらこちらの事情ばかりいっても仕方ないのではないか。しかもたとえそんな怒りの状態で誰かのためにご飯を作ったとしても、そもそも美味しく出来上がるわけがない。その状態はまるごと味に出てしまう。ここはひとまず大きく息をして落ち着こう。そしてもう少しこの状況を引いた面から、つまりは親と子どもなんていう、こちらが勝手にしばった関係性から見るのでは無く、一対一の人間として鑑みてみよう。そうしてみると、おのずとこちらの姿勢が決まった。
「ほんとうにごめんなさい」。
彼の目の前に行って、身体を折り曲げ、頭を完全に下げた。「ジョージの水筒を持ち帰り忘れたこっちが悪いよね。ほんとうにごめんなさい。必ず明日持ち帰るから、今日は許してくれないかな。ね? ほんとうにごめんなさい」もうこころから誠心誠意、謝った。
するとどうだろう、驚いたことに彼は「うん、うん。わかった」と嗚咽めいた感じで頷きながらこちらの考えを呑んでくれて、違うコップで飲んでくれたのだった。それから関係がスムーズになって食事の準備を始めた。
別にこれが正解だったといっているんじゃない。たまたま彼が許しなだめてくれたのだろうし、次にこのあり方でうまくいくかも分からない。でもたぶん、たしかに答えのひとつではあったし、なんというか、僕も彼をただ幼いからとか時期的にわがままだからといって、紋切り型に考えず、一個人としてきちんとあやまって気持ちが穏やかになった。少なくとも上から下へなにかを見るのでは無く、同じ目線で見ることはそれだけでひとつの学びになった気がする。
じつはこれには後日談があって、その次の日、またまた僕はジョージの水筒を店に忘れてしまう。いや、店を出て橋を渡ったくらいにそのことに気がついたのだけど、「まぁやつは昨日のことは忘れて覚えていないだろう」と思ったのだ。そういうことはいままでに何度かあったから。子どもは新陳代謝の化け物であると同時に、忘れモノの天才でもある。
「ジョージのしゅいとうは?」
ああだがしかしなんということか。家に帰り着いて彼が言った第一声がこれだった。
「ああああー!ごめん!・・・ええとどうしようかな、取りに帰ろうか・・・」などとあたふたしていると。
「・・・ぼく、おこらないよ。なかないよ。ジョージのしゅいとう、なくてもゆるしてあげるよ」
と、もうこっちを置いてけぼりした感じに、おとなじみた感じに、いうのだった。
考えてみれば子育てというのは、いわば日々カメラのシャッターを切っているような感覚というか、きっと瞬きをしている間にもうすでにその時は過ぎて、二度と戻って来ないと知る術のような気がする。そして当たり前に僕らは育て、同時に、育てられる。正解はないと知りながら、そのことを痛感するばかり。なのです。
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