2017年10月21日土曜日

『BLA BLA BLA GO WORKOUT』 SUPER8 Illustration exhibition によせて




イラストレーターでもデザイナーでもはたまた映像をも手がける“SUPER8”こと、上妻勇太くんと出会ったのは、そもそもは作品が先だった。僕はこの仕事に就く前に、『九州の食卓』という雑誌の編集に携わっていたのだけど、僕が辞めた入れ違いで彼はデザイナーとして編集部に入っていた。辞めた後もなんとなく本誌をめくってはいたのだけど、そんななかで突如かなり惹き寄せられるイラストが描いてあるのを誌面で発見した。僕はあんまりイラストを見てそこまで反応する方でも無いのだけれど、そのときはちょっとなにかが違ったようだ。イラストはジビエ特集のヤツで、鹿なんかが描かれていたように思う。

ほどなくして彼も編集部を去ることになり、フリーの道を選ぶことになって、そんなタイミングでお互いに出会うことになった。もし編集部でお互いが出会ったらどうなっていただろうなぁ・・・と思わないこともないけれど、でもまぁその後こうやって出会ったのだから、出会うべきひととはきっと出会うのである。本当にこころからそう思う。それで始めにお願いしたのは「プラントハンター」でお馴染みの西畑清順さんの『そら植物園』の展示会のDMだったんじゃなかろうか。



なんというか、もちろんお互いカルチャー好きはそうなんだけども、なんせお互いに出が違うと言うか、毛色が違うと言うか、なかなかに接点が見つけられずに最初は苦労したのを覚えている。僕の場合はカルチャーといってもほんとに好き勝手無作為乱暴な道を辿っていて、例えば「とある欲しい感じ」を説明するのに本当に苦労するのだけど、やはり芸大、大学院までも通った上妻くんの場合はそこにやはり知があり肉がある。つまりは僕からすると彼はかなりのインテリジェンスなんですよね。弁が立ち、頭が速い。だからして僕はビートルズの『リボルバー』のレコードのジャケをどっからか持って来ては「自分が想うサイケデリックっていうのはさぁ・・・」とかいってわかりにくい講釈を垂れることになる。まぁそういうのも、というか、そういうのが、愉しいんだけども。それからは奥さんのマッサージの広告だとか、DMだとか、ほんとうにいろいろな仕事を(薄給ながらも)お願いをした。そしていまでもその関係は続いている。

さて。そんな彼がワークアウトに走るようになったのは、果たしていつのことだったろうか。震災前にはそんなことは無かった気がする。気がつけば店に来るときの服もなんだか吸収性の良さそうなハイパーな素材のスポーティーなものに替わり、カラダも顔のラインもこころ無しか引き締まり、話を振れば妙にプロテインなんかに詳しい男になっていた。なんせ凝り性である彼のことだから、そうなったらばそうなるであろうとは薄々思っていたけど、まさかここまでワークアウトに走るとは、驚きでもある。そしてとある日、彼から展示会の話をいただき、テーマを聞いてみるとやはりワークアウトであるという。本人が書いたDMの文章には「筆を捨てよ、ワークアウトへ出よう」なんて言葉が記されているではないか。絵描き本人が「魂を解放せよ」なんてメッセージではなくって、「ワークアウトに出よう」なんていうメッセージでもって展示会に挑むのは、なかなかに無いことではないだろうか。




かくいう僕も、子供が産まれる前までは、一時期ワークアウトに走ったことがある。だから思うのだけど、ワークアウトすると確実になにかが変わる。なにが変わるって、まず文章を書く人間であれば、文章が変わる。そのリズムが変わる。ワークアウトする書き手で最近で最も有名なのはもちろんハルキ・ムラカミ氏であろうが、彼も走るようになってすべてが変わったと書いていたと思う。個人的にいちばん大きいのは、「なにかがほぐれていく感覚」だ。例えばとある文章を書かなければならないのだが、そのまず一歩がなかなか出ない、ということが書く仕事をしているとよくある。あまりにテーマが大きくてあたまのなかでそれがぐるぐるぐるぐる周り、掴もうとすると、つるつるつるつる逃げる。だからずっとPCのスクリーンの前で悶える。喫煙者であればタバコの本数がただただ増え、時に居眠りをし、時に鼻くそなんぞをいじくり、無駄に胃袋に食べ物を詰め込み、そしてまた時に眠る。ずうっとその繰り返し。・・・そんなときである。外に出て、走るべきなのは。そんなときこそである。ワークアウトに走るべきなのは。ワークアウトとは明らかに反復行為であって、それは言って見れば、ぐるぐるぐる周って掴めないあたまのなかと同じなのだけど、それとともにからだが実際に動いていると、少しずつなにかに近づいていく感覚が見えて来る。繰り返しのなかから、繰り返しのなかでこそ、見えて来るなにかがある。反復行為のなかで、どこにも行けないのだけど、少しずつなにかがほぐれて見えて来るもの。つるつる逃げる文章の端からようやくこぼれ落ちて来るもの、あるいは一瞬にして上からぽたりと落ちて来る書き出しのようなもの。それらは反復行為のなかでこそ、落ちて来るもの、だと思う。気がつけば、自分の呼吸の具合も変わり、それによって文章の息の長さとかリズムもこころなしか変わってくる。もしかしたらそれは新たな自分かもしれなくて、結局のところ、僕らはどこへも行けないかもしれないが、そうやって自分を少しずつ更新していくことはできる、と言えるのかもしれない(と書くと、それこそまるでハルキ・ムラカミみたいだけど)。



・・・と、展示会の作品を前にしつつ失礼を承知の上で勝手ながら長々と書きなぐったのは、今回の展示会のテーマを元に考えた、あくまで文章を書く人間の、僕自身の戯言である。でも果たして絵描きの線が、文章とどこまで繋がっているかは、絵描きではない僕には分からない。ただし、明らかになんらかの変化があるのは確かなであろうと思う。彼は今回のDMで「日ごとに身体の細部まで神経が通っていく感覚は、思い通りの線が引けた時の感覚と似たような感覚だった」と書いている。果たして彼は日々の反復行為のなかで、どんな景色を観て、どんな更新をしたのだろうか。この展示会で、もしかしたらそれが分かるかもしれない。その辺を考えながら展示会を観て行くのもいいかもしれない。作家はできるだけ在廊してくれるみたいなので、気になる方は本人を捕まえて話を聞いてみてください。というわけで、本日から展示会が始まります。








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