2018年10月6日土曜日
純潔な辛さ
『Mono Fontana/cribas(モノ・ファンタナ/クリバス)』。これが今回の展示会のために僕が選んだ音楽で、よく店内でかかっている。
モノ・フォンタナというひとはアルゼンチンのキーボード/ピアニスト。そもそもアルゼンチンというのはサッカーで有名な国だけではなくって、じつは音楽も奥が深く、音楽好きにはよく知られている「アルゼンチン音響系」と呼ばれるシーンがあって、カルロス・アギーレ、フェルナンド・カブサッキ、アレハンドロ・フラノフ、とかとか、名前を並べるだけでなんだかゾクゾクするような音楽家たちが多数いたりする。その音楽はといえば、南米というわりにはとても静寂を帯びていて、民族音楽をベースにはしているのだろうけど、確実にクラシックの色合いが濃く、ちょっと宗教性も感じさせるものもあったりして、とにかくどれも静かに美しい。ただ単に楽器を鳴らすだけでなく、さまざまな自然音も聴こえて来るのも特徴のひとつで、そんな音の組み合わせが鳴らされた空間に不思議な協和を産み出してくれて、このモノ・フォンタナのアルバムもそんな一枚である。
・・・とまぁそんなウザいレビューみたいなものはググれば誰でも分かる事でどうでもいいのだけど、とにかく僕がこのモノ・フォンタナというアーティストを知ったのはもう随分前、東京にいるときだった。その頃、僕には祐天寺に住んでいる音楽+呑み友達が居て、夜な夜なふたりで呑んではその友達の家に泊まり、二日酔いを抱えたまま、とにかく辛過ぎるカレーをよく食べたり、その後、ガード下にある中古レコード屋に行っては金もないのにいつまでも粘っていた。法外に、純真に、純潔に、辛過ぎる、でもどうしてもなぜかまた食べたくなるその不思議極まりないカレーは、どうしてなのか同じものを同じ辛さで食べても、いつもこちらが感じる辛さの度合いが変化して、まったく普通に美味しく食べれるときもあれば、あまりにトゥーマッチでゼイゼイ言いながら食べるときもあった(まぁそのときのほうが多かったけれど)。その日によってカレーの味も辛さも変えてあるわけがないのに自分がそうなるのは、きっと純潔な辛さというのは、食べるこちらの体調や気持ち次第で感じ方が変わるから、もしかしたら舌の感覚も変わるんじゃないか、などとどうにもならないことをよく考えたものだった。
・・・いや、やっぱりそんなことはどうでもいい。話は音楽である。そういうわけでそのガード下のレコード屋に当時よく僕は通ったのだが、そのときにこのモノ・フォンタナの中古CDを見つけたことがあったのだ。見つけたすぐからその幻想的なジャケットが気になって気になって仕方が無かったのだけど、そしてそれは本当に長い事売れることも無く、たいして高い金額でもないのにそのCD棚にずっと置いてあったのだけど、なぜか買う事が無かった。いつも迷って他の音楽を手にしたのかもしれない。そうして結局、東京を離れてこちらに来ても、その手に入れることの無かった音楽がどうも気になって仕方なく、「いつか手に入れなければならない音楽」のひとつになっていた。
なぜだか分からないのだけど、今回の展示会の前にようやくなんとなくこのひとの音楽を買い求め、聴いてみると、ずばりその通りの、こちらがこの展示の空間に求めている音楽だった。音楽自体がとても映像的で、谷口さんの作品の世界観と絶妙に合っているような気がする。そういえば谷口さん自身も実に音楽に造詣が深いひとで、在廊のときはかなりいろんな音楽の話をした。彼女の父親がクラシックマニアで、小さい頃、こちらがテレビで『キン肉マン』を観たいのに、父親が珈琲豆を自分で挽いて淹れる儀式が終わると、おもむろに同じ部屋でクラシック音楽のレコードを聴き出すので、悔しながらもテレビを諦めたこと。でも結局その父のレコードコレクションの一部をいま譲ってもらい、その当時父が聴いていたクラシック音楽はどうにも自分に染み付いてしまっていること。僕も彼女もスピッツの音楽(特に初期)と世界観が好きで、お互い草野マサムネの話を始ればとめどのないこと。あんまりジャンルに捕われて音楽を聴く事はなく、そのときそのときの自分の感性と流れによって偶然と必然に導かれながら音楽を聴いたりすること。そういう意味ではこないだはマイルス・デイヴィスの『リラキシン』の話をお互いしきりにしたっけか。
まぁそういうことと、選んだこのモノ・フォンタナの音楽がどう関係しているのか。関係していないような気もするし、しきりに関係しているような気もするし、どちらかは分からないのだけど、でも結局のところ僕は、すべての物事はどこかで繋がっていると捉える方だし、思えばもしかしたらもう10年以上も前になるであろう、あの祐天寺のガード下のレコード屋におけるこの音楽家との出会いが、たったいまこの展示会で結実したのは、やはりなにかの必然だろうとなんとなく思っている。もうこのことはあのときに、あの純真に、純潔に、辛過ぎるカレーを二日酔いで食べていたあのときに、もう決まっていたのだろう、と。そう考えるととても奇妙で、また再びあのカレーを食べたくなって仕方がない。
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