雑誌の編集をやっていた頃、驚いたことのひとつに「楽しさや熱量の伝わり方」がある。
写真、文章、イラスト、デザイン…と要素はいくつかあれど、創る側にそのページや企画に対する楽しさや熱量が確かにあると、出来上がってみればすぐに分かってしまうのだ。うまく言葉では説明できないが、ページを開き、紙面に立ち上がっているそれを見れば、「あー、これこれ」とすぐに感じ伝わってしまう。逆に言えば、それが無く創っている場合も分かってしまうということなので、ちょっと恐いことでもある。
自分は釣り新聞、音楽や映画の冊子、食の雑誌、といくつかの発行物に関わってきたが、どれもその点は一緒で、創り手側の盛り上がりや苦労、それを含めた総合的な楽しさ、熱量というのは、くっきりと紙面に出た。面白いのは、やはりそうした創り手側の熱というのは、少なからず読者にも伝わり、熱の入ったものというのは得てして売れ行きが良かったりするということ。そのことが編集をしていた時には不思議で仕方が無かった。創る所を見てもいないのになぜ、と。
ただ考えてみるとそれは当たり前のことかもしれなくて、例えば隣にいるパートナーや友達、人生などについていつもいつも愚痴をいっている人に、果たして人は付いていくだろうか。それよりもやはり、周囲と楽しくやりあい、熱っぽく生活を送っている人に、人は引寄せられていくに違いない。そうした「生きる雰囲気」のようなものに人はとても敏感だ。ページから立ち上ってくる「楽しそうな感じ」とて、同じことではないだろうか。
…またこうしてくどくど関係ないと思われる前説を置くのは、たぶんそれは「店舗」にとっても同じではないかと思うからだ。どんなにマニュアル化された数あるコンビニだって、本気で楽しそうにサービスをふるまう店員のひとりがいるかいないかでおそらく集客数は変わるだろう。
東京にいた頃、あるチェーンのうどん屋さんに場所違いでよく通ったものだが、店によって雰囲気がまったく違うのに驚いた。同じマニュアルを使って店員のサービスを教育するのだろうけど、楽しそうにいきいきと店員が働く店と、そうでない店があった。たぶん、店長の人柄や店員の揃い方で変わるのだろうけど、そりゃ当たり前に楽しそうにいきいきと働く店にこっちも足繁く通ったものだ。やはりそれも本の時と同じで、「楽しさや熱量」というのは、何にせよ伝わってしまうということだろう。結局、利益をきちんと追いながらも、「楽しさや熱量」をいかに失わないか。そこが一番のポイントになるかもしれないな、などとぼんやり考えている。
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