2018年1月29日月曜日
本当の作品
「汝、河豚の白子を食べずして其の本物を語ること無かれ。もとより鱈の白子を知るのみで決して河豚の白子を語ることなかれ」。
先日、たまたま店でながいこと取り扱わせていただいている「つくしペンケース」のことについてちょいと調べようと思って検索したらば、驚くことにこのペンケースのまがい物、もしくはそんな風に思えるようななにものか、が結構世にあることを知った。いやー、こういうことは今の世の中よくあるよくあると聞いてはいたが、まさかここにもあるとは思わなんだ。周囲のひとと話してみると、いや、もう、そんなことを言い出したらこの世の半分以上はそんなものばかりだ、だとか、洋服の世界なんてもっともっとひどいものだ、とか、まぁとにかくこの世はニセモノだらけの世の中らしい。まぁそうだろうなぁ。そうなるだろうなぁ。
今の時代、たったのゼロから何かを産み出すものの常として、パクられるリスクや可能性は常に考えておかなければならぬこと。もちろん何事も模倣から始まるのは僕とて分かっている。こんなしがない僕の文章だって、背後に尊敬してやまない誰かの影があることは僕がいちばん分かっている。が、だからこそ思うのだけど、どうせマネをするのならば、しっかりと本物をリスペクトしたうえで、本気でサンプリングしオマージュし自らのなかで昇華し、結果的に自分のなかで本物を超えるくらいのものを産み出す気概が無いといけないはず。というのが共通認識ではないのか。かつてビートルズがブラックミュージックをカヴァーしたように。例えがズルいか。まぁあれですよ、フェイクはフェイクの面白さっつうのも知ってのうえですけどね。カッコいいニセモノやフェイクだってこの世にはありましょう。高円寺で30年以上続く、ビートルズのオヤジコピーバンドにおける、あまりにソウルフルなシャウトのように。例えがアレか。でもとにかくそれだって本物に対する心からのリスペクト無くしてはあり得ない。そう、まがい物だといいたくなるヤツは得てして心だとか魂が感じられない姑息感がつきものだ。一滴でも水割りを薄くして金を毟ろうとする場末なスナックのママのような。うっすらとその裏に透けて見える小金印。
だから何より僕らは、本当の作品とまがい物を見抜く眼をせめて持ちたいものだと強く想う。それを見抜く触覚を共に磨きたいものだと切に願う。それは売り手しかり。その眼と全感覚で本当の作品を見抜いてからこその本物の売り手であって、まがい物に惑わされては、それを売る側とてきっとまがい物になってしまうわけで。そしていちばん悲しいのは、それを知ってか知らずかお金を出して買ってしまうひとがこの世にまた存在してしまうという事実。でもだってそれしか知らなかったら誰だってそうなるわな。だから場末スナックママの姑息感は恐い。なによりそれは本物を知らないひとが、本物の素晴らしさを知らないまんま、本物のようなものについて、どこかで知ったような顔で語ってしまうことに繋がってしまったり。それがいちばん悲しいのです。
それぐらい全体におけるモノを見るレベルが下がってしまう話はないし、であれば、うちのような店がここに在る意味、そのものが消え去ってしまう気がする。僕はそれだけを、つまりは自分が信じる本当の作品の素晴しさとか感動とか悦びをほかの誰かと分かち合うこと、を願ってこの店をやっている気がする。そしてそんな自分に少なからずお客さまが付いてきてくれることをこころから悦んでいるし、なんだか安心している面もある。でもだからこそまがい物についてはまったく他人ごとではない。こう見えてもいちおう使命感のようなものを僕も持っているのです(たぶん)。
この話はこころある創り手、というか、うちが取り扱うすべての創り手の方なら分かってくれるはずだろう。本当の作品を産み出す作家であるところの創り手こそは、日々何かを新しく更新して行かねばならない宿命であるはずで、だから本物はツラくて厳しい。自分のうしろにまがい物が並んで追って来ることを覚悟しながら、日々空を掴んでは新たな作品を産み出さねばならぬ。であるから、本物の「つくしペンケース」は美しく力強い。例えそれが文具であろうとチョコレイトであろうと器であろうとアクセサリーであろうと調味料であろうと、うちに置いてある以上、それらはすべて「本当の作品」だと言い切りたい。そして自分はこの店において、我が文章において、それを全力でフォローしてゆくであろう、と。
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