2017年9月16日土曜日

出会いの仕事




昔、昔、たぶん自分が高校生だかそんなとき。なんとなく今後の自分の将来をぼんやり考えているようなそんなとき。ふとあることに気がついた。

「自分はこれから死ぬまでの間に、果たしてどれだけのひとと出会うんだろう。何人のひとと出会い、知り合っていけるのだろう」これから先に広がる自分の人生を考えた時、これから新しく出会うであろうひとたちのことを考えると嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。人生という、まだ見ぬ地平に立ったとき、その先に遥かに広がる見知らぬひとびとがいることに対して、心底ワクワクしていた。まだ熊本という地しか知らなかったあの時、これから自分はどこへだって行けるんだ、誰とだって知り合えるんだ、ということ自体に得体の知れぬ悦びがあった。あの若くて蒼い感覚は忘れようがない。

そんな風にひとと出会うこと自体を祝福できる気持ちを持てていたことは、そして持てていることは、きっと自分の親に感謝しなければならないことのような気がする。基本的に別段ひとが好きなわけでは無いし、別段誰にでも愛想が良いわけでも無いけれど、でも誰かと出会うこと自体にワクワクするなんて、たぶん気持ちの根本の部分がある意味清くないと、一応まっすぐじゃないと、たぶん思えないことだろうから。そしてそういう心持ちこそは、たぶん小さい頃からの小さな積み重ねだったり、どんな家庭でどんな笑顔に囲まれどんな関係性のなかで育ったかによるものであって、なかなかあとから得難いことのように思えるから。自分の子どもにも、そこだけは伝えていきたいのだけれど。

そんな若くて蒼い感覚にひとまず小さな句読点が打たれたのは、やはり大学生の頃にひとりで二ヶ月間ヨーロッパを旅したことだったように思う。オランダから入って、最後イタリアから帰るまで、さまざまな国々をひとりで巡っては、睡眠薬を飲まされお金を盗まれたり、ゲイの男性の部屋にのこのこ付いて行ってあわや襲われそうになったり・・・といろんな経験をしたけれど、結局のところあのとき自分が得たのは、同じ地球上でみんな等しく同じ時間がしっかり流れていることへの納得のようなものだった。もちろん今ではSNSだってあるし、テレビをつければ外国では外国の時間が流れていることは分かるけど、でもそれは本当に分かっていることにはならないのだと思う。少なくとも自分の感覚ではそれは違う。例えばスペインでとあるスーパーに入ったとき。つまらなそうに働く、美しくて気怠い若い女の子がいたことを想い出す。ホテルに帰って、その子について一篇の小説でも綴りたくなるくらいに自分のなかの何かをその子は激しく撃ったのだけど、でもとにかく日本から遠く離れたこの地でだってきちんととある人生が廻っているのだ・・・ということにひどく納得してしまった。腹の底からそのことに頷いてしまった。あの子はいま元気だろうか。

そうしてその後、自分は東京へ行って10年近く過ごし、それこそいろんなひとたちと出会っては別れ、知っては離れ、またこの熊本に戻り、なぜだかこんな店を開いている。言って見れば今の仕事というのは、ある意味で「出会いの仕事」だと思う。とにかく出会わないとなんにも始まらない。ウェブであってもインスタグラムであっても風の噂であっても実際この目であっても、なんにしたって出会わないと物事は始まることがない。ある作品とある形で出会う。どうしようもなくこころが動かされ乱されれば、作品の作家にどうにか連絡を取って、出会う。そこでうまくなにかが起これば、この店でお客様がその作品に出会う・・・ことになるのかもしれない。その出会いにおいては自分のすべてが試される。もはや自分の人生そのものが試されているようにも思う。作家はその作品においてすべてが試されるが、店はそれをやっている人間すべてで試される。売れる、売れない、お金になる、ならない、それも実際は大事だ。でもやっぱりそれより腹の底からお互いに作品と人生を受け止め、その出会いそのものを祝福したくなるような関係性を築けたら。そんな出会い丸ごとを受け手のひとたちとも共有できたら。それにしても。あの若くて蒼い感覚を持った若者が、先々の将来、まさか「出会いの仕事」をしていると知ったらば、彼は果たしてどんな顔をするのだろうか。











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