こういうことをのっけから、曲がりなりにもお店をやっている人間が書いてしまうのは自分でもどうかと思うのだけども、いま自分のやっていることが本当の意味で周囲のひとたちに伝わるのはもうあと三年くらいかかるのではないか。そんなことが頭をぐるぐるとよぎっている。別にそれは弱気であるとか、めげているだとかそういう感じではなく、まだまだ時間がかかるだろうなぁと、漠然と、悠々と、粛々と、でも少しばかり偉そうに思っている。
それは繁盛して繁盛して仕方が無い、そんな状態ではない自分への言い訳でもあろうし、でもこういう店をこういうやり方でやろうとしている身での、こころからの正直な意見でもある。あと三年とか言いつつ、志しなかばで無くなってしまう店もゴマンとあるのだろうし、もちろん自分がそうなってしまうとも限らないわけだけど、でもたった現在、そう感じていることをこうして正直に書き付けることがそう悪いことだとも自分では思わない。
自分でもよく分からないのが、「といって、逆にそう簡単に分かってもらってたまるものかよ」みたいな気持ちがどこかに、というか、ここに在ることだ。隅から隅まで消費され尽くしてしまうことへの恐れ、のようなものが在る。そんなこと、されたこともないのにね。たぶん、されることもないのにね。
これはもう想像するに、本当は売れたいのにセルアウトはしたくないミュージシャンと、心持ちはまったく同じであると思われる。だから、やろうとしていることは素晴しくかっこいいのに、なかなか思うように飛ばなくてくじけそうになっているミュージシャンのインタビューなんかを読むと、とてもじゃないけどひとごととは思えない。アツくなる。そしてそう思えるだけでも、こんな店をやっていく意義があるんじゃないのかな、なんて思ってしまう自分は、やっぱり本当にどうかしてるよな、とも思う。
でもとにかく自分は、自分の在り方で、自分の在り方にこだわって、日々自分と自分の在り方に悩みながら、やっていくひとやお店に共感する。なぜなんだろう? そういうひとやお店というのは、大抵何はなくとも通じ、繋がるものだったりする。イバラの道をともに進んでいる、悲しき共感のようなものがそこには在る。
と、いうわけで、岡山の『ウーム・ブロカント』である。岡山の西原兄弟、児島に在りけり、である。なにも知らないひとは古道具なんてどれも同じでしょ?とかいうのかもしれないけれども、それは違う。まったく、まったくもって、それは違う。ひとくちにいって、こんなにも扱う側に美学が有るか無いかとか、そこに愛が在るか無いかとか、作品と呼べるものにまで落とし込む技量と度胸が在るか無いかとか、はっきり分かるジャンルも無いと思う。というか、それを知ったのもこのウームというブランドを知ってからだけど。
古い物なら古い物なりの使い道というか新たな提案とアイディア、飛び道具。特に弟さんが手がける『testis(テスティス)』においては、廃材をまったく真逆の方から捉え直すことによって見えて来るその地平とリリシズム。廃材を捉え直すことから、アッといわせる作品へと昇華するその発想。それはどう考えてもちょっと他に類をみない。どうしても自分はそれをパンク、だとか、アヴァンギャルド、だとか、分かったような分かってないような感じで表現してしまうのだけど、でもねぇ、他に言い様がないのよ。すべからくそれはかっこいいし、何かの壁をたしかに蹴飛ばしている。見ているとどこかからブルー・ハーツの音楽が聴こえて来るみたい。何回もいうけど、そう感じさせるブロカント屋さんというか、それを用いて作品を産む創り手はそうそうは居ない。
そしてひとつひとつのブロカントもなんだか妙に凛々しい。古道具に対して使う言葉かどうかアヤシいけども、どうにも色気がある。でもこれは分かってくれるひと、いるんだろうか。いつも通り自信がないのだが、とにかくピンと来たひとはウームのサイトに飛んでみてほしい。必ずや愛すべしものに出会うはずだから。そうそう。価格も優しい。これは少なくともトウキョウ価格ではないものと思われる。
ただし、これはフェイスブックにも書いたのだけど、ブロカントが好きなひとというのはやはりちょっと遥かなるノスタルジアというか、変態的刹那主義というか、江戸時代の隠れキリシタン的というか、なんというか、基本少し、いや、だいぶ変わり者だと思う。自分も含め、そう思うフシがある。あるひとにとっては捨てるべきものを「うわっ!ヤバいじゃんそれ!」といってヤバがる感じとか、この毎分毎秒のように無理矢理に進んで行く、進んで行かされる、アップル的消費主義社会への気づかぬうちのカウンターというか。そもそもが古道具と呼ぶ以上、それは日々この世から無くなっていく運命であり、そもそもがきっと枯渇も枯渇なのであって、なんかそう考えるといつも誰かが買い付けに向かっているようなアメリカって凄まじく広くて大きいし、やはり古い物をリスペクトする歴史がハンパ無いなぁとか思うのだけど、ここは日本で、別段古い物を特別にありがたがる傾向も未来も歴史も無いし、それはこれからますます顕著になるであろう。だからやはり僕はそこに悲しき共感みたいなものを持ってしまうのだけれど、だからこそいま在るうちに目を見開かなきゃいけないと思うのだけど、さぁどうなんでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿