2017年9月22日金曜日

とあるフィードバック




先日、とあるお客様から今年5月の金澤宏紀くんの展示会の時に作った冊子がかなり良かった!というお言葉を今さらながら直にいただき、これはもうほんとうに嬉しかった。自分もウェス・アンダーソンのファンでニヤニヤしながら読んだとか、いまでも買った器の隣に冊子を飾ってるとか、ああ、もう、なんなのいまさら!という感じ。

と、なんでこんなことをいちいちこんなところに書き付けるのかといえば、それは自慢でもなんでもなく。僕なんぞ本来ならば、ある意味こういう悦びのためにこんな仕事をしているはずなのに、一年はあまりに速く過ぎ去って、気持ちはなんとなくただただ慌ただしく波だち静まっては、時は過ぎてゆくものだから。お店をやっている以上、その時その時で勝ち負けはしっかりと数字で出るし、やる以上は勝たなければならないのがお店の使命でもあり、それはしっかりと大切なこと。だからこそ、その時その時で一喜一憂してはもう次の仕事が始まり、また勝ち負けが出てはまた一喜一憂し・・・の繰り返し。そういう仕事なので確かに仕方がないのだけれども、でもただただそれを繰り返していると必ずや疲弊していく。それか、ただただお金のために働いて・・・というか本人はそのつもりではなくとも周囲から見ればそう思えるようになってしまう。会ったそばからお金の話するひととかね。まぁ別にそれはそれでなんも悪くはないですけど。

例えば昔雑誌を作っていたときもそうだった。雑誌を作るなんてのはそれこそもう総力戦で、一回一回が雑巾を絞り出すように自分のすべてを搾り出しては数ヶ月、数週間それに挑み、ようやく終わってはもう次の号の準備が始まる。だからこそ編集部なんてのはある意味ファミリーに近い感覚になっていって、それはそれで独特の豊かさがあるのだけども、だからこそ入り込み過ぎると外から自分を見る目が失われて行く。気がつけばルーティーンにスポイルされている自分に気づいて唖然とする。入社当初は初々しくてぺこぺこしてて礼儀正しかったあの子も、そして自分も、なんだかめちゃくちゃ横柄な態度だとか考え方をするようになっている。なにより最初に自分が抱いていたものをすっかり忘れてしまうのだ。本来ならば伝えたいことがあるから作る、はずなのに、どうしても作らなければならないから作る、作るために作る、の繰り返しになってしまう。これを疲弊と呼ばずしてなんと呼ぶのか。

たぶんそういう時に大切なのは、自分なりの句読点のようなものを持つことだと思う。句読点を打つことで自分のまっさらをもう一度自覚して、常に軌道修正していくこと。常にぶれている自分を自分がまずいちばんに自覚すること。自分が投げたタマの軌道をしっかりと最初から最後まで追うこと。でもこれがなかなか難しいんだ。なぜといえば、やはり誰もが日々の日常に流されるのがいちばん楽だし、なんにも考えなくていいから。最初の想いを持ち続け、保ち続けるのは、どうにもめんどくさくて日常の流れから逆流することだから。

もちろんもうおわかりだろうが、この文章だってその句読点を打つために、自分のために書いている。そしていちいち自分を最初の自分に戻してくれるその指針になるのが、なりやすいのが、他人からの遅れて来るフィードバックなのだろうと思うわけです。なにかを作ったり、なにかを提供したりすれば、僕らはその結果や成果をすぐさまこの手に掴もうとするのだけれども、そしてそれは数字によっていちおう目には見えるのだけども、やっぱり芯が本当にひとに伝わるのって時間がかかるし、腹にずしりと来る本当の手応えほど、ある程度のフィードバックと租借期間がいる。逆にいえばすぐに伝わるものほど忘れさられやすいし、風化しやすい。だからこそ、始めに書いた冊子の感想はこころから嬉しかった、というわけです。「自分はひとになにかを伝えたいからこそ、この店にいるのだ」ということを自分は決して忘れてはいけない。この店はどこまでいってもそういう店でなければならない。






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