2017年11月18日土曜日

とあるノスタルジア

先日、天草でのイベント出展において、個人的にいちばん驚いた瞬間と言うかグッと来てしまった瞬間というのがあって、正直この辺の話、つまりはカルチャーめいた話はあまり人気が無いので、あらかじめ釘を打っておきますが。

初日前の搬入日に事が終わり、友人の車に乗せてもらいご飯を食べにいく車中であった。カーステなんて懐かしい呼び名からとある音楽が聴こえてきて、僕はその音楽を、とても大切に思える音を、明らかに聴いた事があるような気がしたものだが、なにせ搬入やらなにやらで皆疲れに疲れ、とてもじゃないけどそれを言い出す感じでもなかったから、何事も無くやり過ごした。

次の日、またその車に乗った時、やっぱり明らかにあの音だと感じたので、僕は友人にいった。「・・・これ、もしかして岡田拓郎?」と。そう、その車中でかかっていた音楽は岡田拓郎の『ノスタルジア』というアルバムだった。友人とは陶芸家の金澤宏紀くんだったのだが。



まぁこんな知らないかもしれない固有名詞が出て来ただけで、ほら、もう何十人がこれを読むのを止めてしまうんだろうけど、別にそれは誰のせいでもないのだろうけど、僕にとってはすごく大切なことだから、続けて書き続ける。岡田拓郎というのはもう無くなってしまった「森は生きている」のメンバーで、僕はそのバンドのことが、たった2枚しかアルバムを出さないで風のように散ってしまったバンドがその音が、とても好きだったのだけれど、その主要メンバーであるひとが最近アルバムを出したんですね。もちろん僕はそれをすぐさま手に入れるつもりだったのだけど、どう考えてもその後にレコード盤で出る気がしていたから買うのを迷って主にスポティファイで聴いていた。というかそんなことはどうでも良くって、そもそもこのひとの音楽のことをどこかで話せる気がまったく僕はしていなかったんです。少なくともこの熊本という地で。


なんかというか、もうそこにこそ、この地の、とある地方の、カルチャー飢餓としての現実があるというか、もちろん広くて狭い熊本だからそんなことは無くってどこかの誰かとそれについて語れるのだろうが、こっちで勝手に狭くしてしまう。そして現実的にいってもこのご時世、なかなか狭い音楽については誰かと語れないですよ。悲しいかな。でもそれがとても近い友人と本当に偶然話せたのがこれくらい嬉しいものだとは。最前線の創り手、クリエイターはやはり違うものだなぁ、と勝手に偉そうに感心してしまった。そういえば、その前に彼の奥さんである木ユウコさんのお手伝いにおうちに伺ったら、これまた大好きなソランジュのレコードがあって、そのときはそこに居合わせた僕と僕の奥さんが嬉しくて驚愕したんだった。そのアルバムはふたりとも大好きな一枚だったから。それは木さんが好きで、と話していた気がする。いずれにしても良い話だ。というかなんだか贅沢な話だ。・・・ん?そうは思いませんか。



もしこの辺の話を読んでただの自慢話にしか聞こえたり、まったくもってピンと来ないひとは、例えばあなたが好きなお店、それが洋服屋でも雑貨屋でもインテリア系の店でも飲食店でも、そこに行ってみて、そこでかかっている音楽を一度気にしてみたらいいと思う。果たしてこのとある地方でのとある店で、この2017年の日本の音楽のなかで、後々考えても必ずや聴かれるべき一枚、でもどうにも見過ごされそうな素晴しき一枚が、ひっそりとでもかかっているところが果たしていくつあるだろう?たぶん僕は無いと推測する。あるとしたら、うちともう一店舗くらいだろう。そんなある意味、気違いめいた店は。いろんなお店のいろんな立場と意見があってしかるべきだと思うけども、僕にとってはそこはとても大切な問題だ。なぜってすべては繋がっていると思うから。創り手やお店の人間が果たしていま何を聴いて何を観て何をいいと感じているのか。何に歓喜し何をファックと思うのか。ある意味、それってすべてじゃないのかな。突き動かされしものはなんですか? みたいな。・・・まぁとにかくそんなアルバムがとある車中でかかっていたんだから、そりゃ僕としては小躍りするってものだ。

そんでまたこういうことを書くと、また自分が感じ悪い系というか知ってりゃいいのかバカというか、なんでそんな偉そうなんだよスノッブタコとか、そもそもなんで先輩はそーいう所でいつも上からなんですかそーいうところはっきり言って大嫌いですとか(経験談)、いろいろ言われるのだろうけど、うーん、でもたぶんそもそもカルチャーってそういうものだと思う。好きなひとはほっておいてもわざわざ自分のお金と時間を割いて新しいもの、自分がピンときてハッとするものを追い求める。そこにおいては例え出会いがどうだとしても、あくまで受動的ではなく、自動的にそれを選ぶ、というのが最も大切だと思う。たぶんそこで彼、彼女らは横から誰がなんといおうとそれを手に入れるだろう。例えソランジュのレコードを買おうとレジに持っていこうとしていたら、横からおせっかいな店員が来て「・・・お客さん、それ買うんでしたら私はお姉さんのビヨンセのアルバムの方がいいと思いますよ。絶対そう思います」なんて茶々を入れられようが(そんなことあるわけないけど)きっと彼、彼女らは買うのだ。断じて買うに違いない。

考えてみるとうちのお店のお客様にはカルチャー女子というか、かつてのカルチャー女子というか、引き続きのカルチャー女性と言うか、つまり僕より少し年上で音楽とか映画とか本がとても好きな女性の方たちがよくいらして、彼女たちと話すのはとてもシアワセな事だといつも思う。彼女たちはもはやカルチャーという草木一本生えていないように思えるこの地で、くんくんくんとその独特な鼻を効かせてはこの満月ビル3Fまで辿り着き、また改めてカルチャーという甘くて刺激的な草木を貪っては懐かしんでいるようにも思える。そんな感じでそれについて僕と延々とお話しする。そりゃ僕だってプリファブ・スプラウトとかペイル・ファウンテンズとか『パリ、テキサス』の映画の事とか、そんな話を愉しくしながら、刻々と時間が過ぎていくのはたまらなく嬉しい。なんというか、少なくとも僕らの間には、とても豊かで濃かったカルチャーの時代を生きた証みたいなものがお互いにくっきりと在るのが分かる。そう、いま考えてみるとあの時はとても豊かだった。少なくともカルチャーにおいては。



といって今の時代がすべて薄いとも思わない。時代はすっかり変わっていまや配信の時代になり、果てしなくただでいろんな音楽が聴け、それを享受できる。それがとにかく豊かだとは少なくとも古い自分のような人間は思えないけれども、当たり前に今の時代は今の時代なりのカルチャーが存在して、それが一部では機能しているのも分かっている。その一部というのがどうもこころもとない、一つになり難い、今まで以上に狭い穴のような気もするけども。まぁとにかくそんなこんなだから、うちの店は取り引きする創り手の方もカルチャーめいた方々が自然に集まってくるような気がしてとても面白くて嬉しい。いやはや、産まれてこのかたどこへも繋がらない無駄な事ばかりにお金と時間を割いてて本当に良かったよな、と改めて思う所存であり、もし君が若くてそんな状態で困って迷っているのならば(たぶんそんな若いひといまいない気もするけど)果てしなくその道を進んだらきっと良いよ、と無責任にも思うわけでありますね。

0 件のコメント:

コメントを投稿