2016年2月15日月曜日

『megumi tsukazaki』の世界

・・・とまぁ商売に関係のない話ばっかしても仕方ないので、現在『NATSUKO SAKURAI』さんのジュエリーとともに展示させていただいている『megumi tsukazaki』さんの作品のご紹介でも。



塚崎愛さんは横浜にてオリジナルの硝子の釉薬などを使いながら、主にジュエリーベースやら小箱、アクセサリーなどを創作されている。写真を観てわかるように、独特の透明感と質感を、硝子の釉薬によって創り出す。「水のような 空気のような 静かな陶」がコンセプトであり、作品それぞれにそのコンセプトを反映した作品名が付けられていて、なんというか、それがより彼女の世界観を色濃く映し出している。


貫入というひびと気泡が美しい「水滴小箱」(5000円+TAX)



底の水滴がとても雅な「水滴ぐいのみ」(3500円+TAX)


ネックレスがからみにくい技も小粋な「水たまり小道」(3000円〜+TAX)

「アーティスティック」・・・なんて、ひとことで書いてしまえば、途端にそれはつまらなく、そしてきっと遠いそっけない存在になってしまう。が、彼女の作品たちはあくまでもう少し自然で、積極的な抽象性のようなものを打ち出す。そこが親しみやすさに繋がっている気もする。きっと創作するうえで、あえて偶然や自然の要素も強く意識していて、結局のところ、だからこそ、ひとが創り出したものというよりも、自然が創り出したもののようにも見えてしまう。例えば、永年、川の激流、緩流によってえぐられ削られた岩だとか、日々の雨風や風化によって形作られた壁や石だとか。「形作ること」と「形作られること」のその間、あくまで流れゆく水に逆らわず身を委ね、それ丸ごとを敢えて対象としてしまうような、まぁひとことでいうと、奥ゆかし懐かしい感じというか、それはきっと「根源的」といっていいとおもう。きっと。


水に浸っているような一輪挿し「水になりゆく花うつわ」(4000円〜+TAX)


ごつごつ感が愉しい「土飾り」(ペア4500円+TAX)


載せたアクセサリーを惹きたてる「糸雨」(3000円〜+TAX)

それぞれの作品の儚い美しさももちろんさることながら、その総合的な世界観の構築と打ち出し方に感心する。自分の世界観を丸ごと自らプロデュースしながらも、しっかりとパックして世に問うのはなかなか難しい。創り手のひとでも、それをできないひとは多い。そこにはいわば自らのストーリー性が必要だし、何よりそれを支える自らのセンスが必要になってくる。陶磁器を使った作品と聞いて、やはり誰もが普通考えるのが「器」なはず。それはそれで構わないけど、でも自分が本当に創りたいと想ったものが「器」じゃなかったらとしたら、果たしてどうすればいいのだろう。だからといって道が無いわけではない、ということを塚崎さんの作品を見ていると想うし、道無き道をあえて創ろうとするその姿勢に強く共感する。


こんがりとした焼き色がなんだか美味しそうな「万年雪」(5000円+TAX)


存在感のあるテクスチャーが光る「土飾り(シングル)」(4500円+TAX)


ちょいグロがたまらない「ろ過小箱」(5000円+TAX)


新作のろうそく「結蝋」(3200円〜+TAX)


・・・と偉ぶっていってますが、僕はまだ残念ながらご本人にお会いしたこともなく、今回はジュエリーの桜井さんのご紹介で初めて作品を通して知った。これはとてもうちの店にとっては極めて珍しいパターンだ。というのも、基本は作品を実際にこの二つの目でまず観て、できれば創り手に実際にお会いして双方納得して、そして大概はお互い盛り上がったうえで、作品を取り扱わせていただくことがほとんどだから。でも今回はジュエリーの桜井さんからオススメがあって、そこを信用したうえでのある意味チャレンジであった。だからこそ、本当にこういう出会いは嬉しい。

作品はなかなか好評に受け入れられている。そうだろうなぁ。うちの店のお客様であれば、このラインは必ず好きなはずだ。というか、まず俺がこんなにも好きなのだからなぁ・・・とうそぶきながら、イヤリングなんぞを付けてみては満足している店主なのであった。



男子にもいける「長方形」イヤリング(4500円+TAX)

2016年2月3日水曜日

『1998年の宇多田ヒカル』

・・・とまぁそんな宣伝めいたことばっかり書いていても仕方ないから、最近読んだ本のことでも。『1998年の宇多田ヒカル』という、現在巷の一部では「預言書」と言われている、かなり売れてる一冊。



といっても、一部で話題だから買って読んだわけではなくて、そもそも僕はこの宇野維正さんという映画・音楽ジャーナリストが昔から好きで、この方が雑誌『ロッキングオン』に居た頃からのファンだった。初めて本を書いたと聞いて、何はなくとも手に入れて読んだというわけだ。日本ではそれこそ小説家なんかには「好きな作家」という位置があるけども、なかなか純粋にライターで「好きな書き手」というのは少ないような気がするので(正直自分でもそんなに居ない)、まぁ珍しいことなのかもしれない。

1998年というのは、CDが日本で一番売れた年。そして宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみという、1998年から現在も突っ走り続けている歌手たちがデビューした年。彼女たち同士の、実はなかなか濃い相関関係(特に宇多田ヒカルと椎名林檎の濃い関係は知らなかった)、彼女たちの当たり前すぎて忘れがちともいえるそれぞれの偉大さ、そして2016年現在から俯瞰して見えてくる音楽業界の在り方なんかが、とても読みやすい文章で、書き手の想い入れをできるだけ削ぐかのような落ち着いた文章で(でも内に秘めた熱い想いはそのままに)記してある。当時の渋谷系や小沢健二のことについても触れていて、ついこないだ復帰ツアーを宣言したオザケン、そしてついに今年NHKの朝ドラ主題歌で復帰を果たす宇多田ヒカルのニュースと見事にリンクした、つまりはオドロキの「預言書」というわけだ。元々書き手はどちらの情報ともリークしていなかったそうなので、これは本当に凄いことだと思う。流れが起こる時には、こうやって本当にすべてが繋がって起こってしまうのだから。ウワサ通り、2016年は「音楽の年」になるかもしれない。というか、自分は根っからの宇多田好きなので、ただただ本当に嬉しい。

「あれから 僕たちは 何かを 信じてこれたかなぁ」。この本でも引用されているけど、スマップの、スガシカオのこの歌詞がぐるぐると脳裏をめぐる。読んでみると、みんなそれぞれ感じることがあるだろうけど、僕自身のことでいうと、やっぱり今現在、この地方における音楽とかカルチャーの在り方について、つい考えてしまった。1998年と2016年現在。20年近くのなかで、過ぎ去ったものと、もう元に戻らないもの。ここ熊本で、1995年に2フロアでオープンしたあの眩しいタワーレコードが閉店したのが2011年。ちょっとキーを叩いてみるだけで、熊本のタワレコが無くなったことを、現在でも嘆いているひとがいかに多いかということに驚く。いまやこの街の小さな音楽ショップもだんだん無くなり、もうほとんどここはカルチャー砂漠状態。アナログレコードブームなどと言って喜んでいるひともいるけれど、本当にそうなのか。どうも店とお客さんがきちんと定期的にキャッチボールをしながら、日々うごめいていくような本物の流れではない気がする。少なくとも、ここにおいては。少なくとも、僕の考えでは。いまに、いやもうそうなってるだろうけど、「CD?それってなんですか?」という世代も出て来てるだろうし、「基本、音楽なんて買うもんじゃないでしょ」という話にこれからますますなっていくはず。1998年のあの狂騒を知るものにとって、そんななかで出来得ることはなんなのだろうか?そもそもそんなことが、まだあるのだろうか?

・・・というか、本当にこの地にカルチャーは無いのだろうか。ようく考えてみると、無いことは無いのだ。僕の周りにだって小さいながらもそれはある。例えば「TSUTAYA」におけるレンタル落ちDVD、CD漁りの中に。例えば『長崎書店』全体とその情報豊富なDM置き場に。例えば日々僕が更新する『vertigo』のFBの文章に。例えば友人でもあり仕事仲間でもある上妻勇太君のすべての活動のなかに。例えば近所の花屋さん『AYANAS』の寺原君が主催する音楽イベント『CURIOUS』のなかに。

ただし、それはあくまで局所的なものだ。全体としてはカルチャー砂漠状態こそがこの2016年の地方の現実、現状であって、それはもう仕方のないこと。状況そのものを嘆いても仕方ない。きっと話はそこから、なのだ。そしてそんななかで自分自身も雑貨店というものを商いしていかなければならない。そのことを改めてキモに命じよう。この本も宇多田ヒカルの復帰によって、この2016年のシーンがどう変わるのかが危惧されつつ終わっている。というわけで、今年はうちの店自身もカルチャーの発信が多めになるような気がしているのです。














2016年1月31日日曜日

『NATSUKO SAKURAI』のジュエリー

…とまぁ本質的なことばかりを書いていてもあんまりウケも良くないみたいなんで、現在展示させていただいている作品をご紹介。今回はジュエリーと陶磁器作品のコラボということで、まずはジュエリーの方の『NATSUKO SAKURAI』さんの作品たちから。



まぁいつもフェイスブックをチェックしていただいている方ですと、写真や文章も繰り返しの部分もあるかもしれませんが、ブログの方がやっぱりきちんと残るし、写真も大きいし、たくさん載るし、文章だってしっかり書ける。そしてそろそろ毎日の更新もフェイスブックに頼るのもどうかなぁと感じているので、これからいろいろ変化があるかもしれません。

今回はなんといってもこの辺のイヤーカフがおすすめ。お値段もお手頃だし、わざわざ耳に穴をぶち明ける必要もナッシン。だけどできるだけたくさん付けた方がよりかわゆし。このね、たくさんあるうちからどれをどう選んでどう付けて行くか、というのも実にあなたのセンスが試されるようで愉しいわけでありますね。
写真上:上からイヤーカフ 7000円、9000円(セット)、12000円(パール)、ピアス:9000円(セット)、写真下:イヤーカフ 7000円、12000円(セット)※すべて+TAX







そして昨年も好評だった羽のピアスももちろんのこと届いております。こちらはガラスのケースに入っていて、ただ単に飾っておいてもそりゃいとかわゆし。
イヤーカフ:16000円、 ピアス:10000円 ※すべて+TAX







第二弾として届いたのが天然石シリーズ。これまたまさに女泣かせの逸品たち。
いや、僕は男なんで分からないけど、これはどう見ても女泣かせであろうという作品たちなのですよ。まぁそれは実際にこのジュエリーをご覧になるお客様たちの目を見れば分かります。もうそりゃばっちしハート形になっとる。ちなみに上からパール、サファイヤマルチ、ラピス、サンゴ。こちらはすべて10金であります。
※すべて16000円+TAX










そんでもってこちらはダイヤの原石。うーん、これは綺麗ですね。自分はダイヤの原石って初めて見ましたが、なんだか素朴な美しさで大変個人的に好きです。こーゆーの分かってくれる女性がいいなぁ。んで、下はブラウンダイヤ。こちらのみ18金となります。・・・それにしてもジュエリーって撮影が難しい。まぁ専門のカメラマンがいるほどですからね。これほんと実際の方が美しいので気になる方はぜひ実際に観て来てください。

原石ネックレス:22000円、ブラウンダイヤネックレス:42000円 ※すべて+TAX







こちらのシリーズもかなり好評で、もう売れてしまってる分もあります。天然石がたくさん付いたネックレスとピアス。名付けて「Kumonoito」シリーズ。これはもう女性的な瞬発力がある感じというか、「うわっ」と来ちゃったらもうヤバい感じのラインですね。ピアスは左右両方ついてます。

Kumonoitoピアス:28000円、ネックレス:42000円※すべて+TAX









もちろん載せきれていない分もかなりあります。ぜひとも実際に見に来られてくださいね。

僕自身、なぜ野良犬めいた漢がこんな煌びやかなジュエリーを扱うのだろう、と自問するところもあるのですが、でも『NATSUKO SAKURAI』さんのジュエリーは男の僕から見てもまさに探していたラインのアクセサリーであって。いや、だって、同意してくれる男のひともいると思うんですけど、なかなか「ちょうどいいアクセサリー」が無いんですよね。あるんだろうけど、じゃあどこに買いに行けばいいかというと難しい。あまりにチープ過ぎず、きちんとしたそのひとなりのデザインセンスが反映されていて、オトナの女性が満足出来るようなアクセサリー。もちろんあるのだろうけど、ジュエリーと聞くだけであまりに高すぎるものもあったりして。

それとジュエリーにも当たり前にトレンドなんかがあって、男だからこそそういうのを知っておきたいな、と思うのも扱う理由のひとつ。男性だからこそ、そういうトレンドを知っておいて方が絶対いい。だって例えば、プレゼントってあげるそのひとのセンスがまるごと試される、ある意味恐い部分があると思うんですよね。だからなんとなく普段からいろんなジュエリーを見ておくのはとても大事かと。男性が女性にジュエリーあげるときに、慌ててどっかのデパートのジュエリー売り場にしか行けないなんて(もちろんそれもいいですけど)ちょっと悲しいというか。ということで、ぜひ男性の方々にも今回のジュエリーは見て欲しいのであります。今回の展示は2月14日(日)までです。















2016年1月27日水曜日

俺のすべて



前回アップした『xocol(ショコル)』のチョコレート、なかなか好評で嬉しい。

というわけで、2016年も始まって1ヶ月近く経とうとしているわけだが、今年はもうちょっとこういう文章をこまめに書いて行こうと思っている。「こういう文章」というのが、果たしてどういう文章なのか説明が難しいのだけども、まぁ店をやっていくうえでの蛇足、いや個人的な戯れ言のようなものというか。

最近個人的にとても気になるのが『BIG LOVE』という東京のクソかっこいいレコード屋さん。もう姿勢からなにからナニまでかっこ良い。いつもチェックしている音楽サイト『the sign magazine』のインタビューで知ったのだけど、店をやっていくうえで勝手にとても勇気づけられた。店をやっているひとたちは、実はみんな日々月々年々いろいろあるはずで、ほんとはいろんなところでそれなりにこういう風に勇気づけられていたりするのだろうけど、でもそんな話はついぞ聞いたり読んだりした試しがあまりない。なんでだろう? それを明かすのがかっこ悪いからか、単に忙しすぎるからか。

いつだかもそういうことを書いたと思うのだけど、やっぱり自分のような店、つまりはかなり個人的なラインを押し通して店をやっているような人間は、どうしてもアンダーグラウンドな方向になりがちだ。それはやっている本人が好むと好まざるに関わらず、自分のやり方にどうしてもこだわりつつ、想うところを想うようにやっていけば、自ずとそのひとの影のようなものが出てしまう。その影こそ、アンダーグラウンド。だがその影こそ、俺のすべて。俺だってこれまで、たくさんのそんな影ある店たちを愛してきた。ああ、今すぐにでも飛んで行きたい西荻窪『ぷあん』(土、日のカオソイ目当てでもいい)、笹塚にあった今は亡き『M'S CURRY』(これまでもこれからも生涯でいちばん美味しかったであろうカレー)、最初惚れすぎて入れなかった岡山の『cafe moyau』(次店でもある『fuzkue(フヅクエ)』にはまだ行けていない)、熊本だったらこないだまであった蕎麦屋の『森山』だって店の親父の影が大有りだった(バイトをわざと怒鳴りつける親父が苦手なひとは多かった)。今だったらシャワー通りのスペインバル『エルカスティーヨ』なんか大いに影があって実に愛している(こないだ行ったばっかじゃん)。うーん、なぜか飲食店しか思い浮かばないな・・・。

まぁどの店もやっている人間の色濃い影がどうにも落ちている店で、たぶんソリが合わない人は一度行ってから行かなくなるようなタイプの店なのかもしれない。そしてきっと、うちの店もどちらかというとそういう店なのだろうなぁとやっている自分でも感じている。そもそも自分の好きなものしか取り扱わないと言い張ったって、「でもそれはお前の趣味でしょ?」と問われたらば「うん、そうかもね!」としか返答出来ないし(たぶん即答する)、まぁともあれ自分がかっこ良いと想えばそれがすべて善しであるし、あなたがそれをかっこ良いかと想うかどうかは僕にはてんでわからないし、だがしかしそれをすべてのひとがノンといえば当たり前に僕の首が自然に絞まっていくという、考えてみると世の当たり前の仕組みである。でもメイクマネはメイクマネ。ライオンだって草食動物の周りを生涯離れられない(自分はライオンなんかじゃなくって野良猫くらいだが)。だがしかし、ほんとはその仕組みこそが普通のはずだよね。中途半端くらいに気に入ってるものなんて、わざわざ自分でプレゼンしたくなんかないよ。それは少なくとも自分のやることじゃない。

ただね、やっぱりそうは言ってもこれは砂漠に水を卷くような、厳しい戦いなのです。どんな店であれ、そういう部分はあるだろうけど、たまに(いや常に)途方に暮れてしまう時がある。どこまでいってもひとりぼっちなのだなぁ、と素直に納得してしまう。時代的にいっても、相手はマスじゃなくって、個人。インディヴィジュアル。どうにかしてひとりひとりをこちらのセカイに引っ張り込んで行く、果てのない作業。だからといって、場所を呪ってはいけない。そこの持ち場でやっていけないような君や僕だったらば、きっとどこに行ってもおんなじだろうから。逃げても逃げても逃げても逃げても、自分の影だけはどこまでもついてくるだろうから。ということで、冒頭にあげたインタビューのこんな文章が俺には俄然引っかかってきた、のだな(といいながら、勝手に引用する。すみません)。

『・・・前までは、エリアスに『〈サマソニ〉出るんだよね?』って言って怒られたのと一緒で、好きなことをやって有名になればそれが一番いい、と思ってたんです。けど、今はアンダーグラウンドのままでも世の中にアピールは出来る。〈ダイス〉とか〈セイクレッド・ボーンズ〉っていうレーベルがあるんですけど、やっぱり自分のスタイルは一切変えなかったり。『よし、メジャー行くぞ』みたいなのが昔はあったと思うんですけど、それがない。多少はあると思うんですけど。』

『・・・でも、(日本は)誰もサポートしないじゃないですか? そう思いますね、本当に。金にならなきゃ、っていうのが基本的にあるんで。若い子もわかってないじゃないですか? 親に言わせると、『それは金になるのか? まずは食えるようになってからやれ』とか言われると思うんですけど、『それじゃ駄目だよ、逆なんだよ』って外人に話すとよく言われるんです。彼らはその価値観が本当にわからない、みたいなことを言う。だから、『あ、俺、間違えてないな』って。食えなくてもやった方がいいんだな、と思いますけど(笑)」 』


まぁアングラかどうかなんて、誰が決めんだ、いや俺が決めんだ、おいだったらどうでもいいじゃん、なのかもしれないけど、問題は姿勢だと思うんだ。姿勢。しせい。市井。・・・ん? いや、そりゃ誰だって守らなければいけないものはある。こんな俺にだって、例外無くそれはある。もうトシだし、そんなこと言ってられない。でもギリギリのところまではやっぱり戦いたい。10人からなんとなく愛される店よか、2~3人にどうしようもなく性懲りも無く愛される店がいい。そして願わくば、自分や店がどこかに行ってしまったとき、その影が遺ればいい。そしてその影が次の影へと引き継がれればいい。自分が店を始めたあの時、そして途方に暮れたまさしくこの時、いろんな店の影にこうやって自分が励まされたように。自分が考える店というのは、まさにそういうものなんだけど。











2016年1月24日日曜日

『xocol(ショコル)』の生チョコ試食販売会

今回店頭では、初めての試みとして『xocol(ショコル)』の生チョコ試食販売を行っています。

ご存知の方も多いかもしれませんが、『xocol(ショコル)』というのは東京は深沢で、ある女性がひとりでカカオ豆を自家焙煎し、石臼で挽いて作る、全くオリジナルのチョコレートです。ここはもう「作る」というよりも、敢えて「創る」という字を当てたいくらいのオリジナルさです。



よくある市販のチョコレートのような、乳化剤や人工香料、油脂の追加を行わない、ナチュラルなチョコレート。ある意味、チョコレート以前の、原始的ともいえるチョコレート、といいましょうか。昨年から取り扱いはあったのですが、そのなかでもなんせ生チョコは初めて。というのも、賞味期限が21日となかなかシビアな商品なので、販売がなかなか難しかったのですが、試食販売方式ならばなんとかなるだろうと今回チャレンジしてみたわけです。

「xocol(ショコル)」の君島さん(それがあるひとりの女性なのだけど)に以前お聞きしたところによると、驚くことにこの方は元々チョコレートアレルギーがあったのだという。まぁいわゆる市販のチョコがダメな方だったんですね。それがあるとき、表面にギラギラと油の浮いた、純粋なカカオのドリンクをどこか他の国で飲んだとき、なぜかアレルギーが出なかった。「はて、これは・・・」といろいろ調べてみると、どうも悪いのはカカオなのではなくって、その他の余計なものたちであったようで。もっと調べてみるとカカオ豆を挽く石臼の存在やら、それらを使ったこれまでと違うようなチョコの存在があることが分かった。そしてなんとyoutubeで(!!)使い方や作り方を調べながら、ほとんど独学でオリジナルのチョコレートを創り上げたのが『xocol(ショコル)』の始まりだったらしい。


ええと、それで基本、スタンダードな生チョコは「石臼」と「TIKA」の二種。あくまでスタンダードな「石臼」はカカオの香りが芳醇も芳醇な濃厚極まる逸品。でも妙なしつこい甘さがなく、濃厚なんだけどあくまで薫るのはカカオの風味。チョコが苦手な方でもぜんぜんイケちゃうこの感じ。まずはここから初めてみるのもいいかもしれませんね。



で、個人的にもっと好みなのが、この「TIKA」。こちらは生チョコの表面にクミンや黒こしょう、ナツメグやクローブなどなどのカカオマサラが振りかけてあるスパイシー&スペイシーな逸品。これは食べてみるとちょっとしたカルチャーショッキングな味。重めな赤ワインなんぞと合わせてみると、かなりいい線いくのではないでしょうか。




ともに注文には2パターンあって、二種入ったディスク型(1850円)のものと、それぞれ注文できるタイプ(1000円ほど)。今回試食していただいてお気に召せば、2月12日以降あたりに納品となります。






で、生チョコには実はもう一種あって、こちらが「うゐのおくやま」(
690円)。なつめやしに生チョコを詰めて塩を付けた、「塩生チョコ」というか。うーん、これがまたシブい味で、男性が好みそうな、あくまで媚びない味。こちらは店頭で販売しています(※売れてしまってご注文のみ)。



今回は生チョコ以外にも二種取り扱いがあって、どちらも現在店頭にて販売中。こちらは「SALAME」(1350円)。ナッツ、ギモーヴ、ドライフルーツ、グラハムクラッカーを入れ込んだチョコレートをサラミ型に整え一口サイズにカットしたもの。もうこれは勝手に定番中の定番と呼びたいクランキーであって、昨年も陶芸家木 ユウコさんの展示会で販売して、かんなりのブレイクを果たした逸品。




もうひとつがギモーヴ、ナッツがぎっしり入った割りチョコ、「Rock & xocol」(1080円)。ギモーヴ(いわばマシュマロ)のふくよかな味わいとナッツのがっしりした食感がタッグを組んでお出迎え。食べ応えがあって、実は案外とスタンダードな味わいかもしれない。




・・・とまぁこんな駆け足で商品を紹介しても、どれにしようか迷いに迷う『xocol(ショコル)』のラインナップ。正直にいって僕は『xocol(ショコル)』のチョコをただの食べ物としては捉えていない向きがあって。それこそうちで扱わせていただいている器とか、さまざまな作品と同じ感覚で捉えています。それくらいオリジナリティがあって、チャレンジングでアーティスティックで、そしてもちろんものすごく美味しい。大手の市販のチョコとの遥かなる遠景、つまりは徹底的なインディビジュアルをここにはっきりと確認できるし、その事自体を僕は愛してやまないわけで。ということで、ぜひぜひ、お試しくださいませ。







2015年12月27日日曜日

2015年


2015年もそろそろ終わり。自分はなんせ近過去に弱く、それが今年のことだったのか去年のことだったのかというのが一番区別が付かず苦手なことなのだけど、今年はなんとなく記しておきたいなぁと思い、いろんな形でここにピン留めをしようと思う。

                *
               

・『モーターサイクルダイヤリーズ』のサントラ



言わずと知れたチェ・ゲバラの伝記映画『モーターサイクルダイヤリーズ』のサントラ。これはアルゼンチンのグスタボ・サンタオラージャというひとが手がけたヤツ。以前からとある本でこれはいい、というかこのひとが手がけた音楽はヤバい、というのを常々聞いていて、数年前にTSUTAYAのセールで見つけて買ったもの。そもそもアルゼンチンの音楽ってタンゴなんかのイメージがあるかもしれないけれど、それとは別にアルゼンチン音楽シーンというのがちゃんとあって、それが以前から大好きでお店でも販売しているくらい。アレハンドロ・フラノフとかね。

どんな音楽?と聞かれてもなかなか難しいんだけど、よく巷では「アルゼンチン音響系」と括られるように、全体的にかなり空間的な広がりを感じさせる音楽で、スピリチュアルなものも多い。それこそジャンル的にはフォークやらジャズやら民族音楽やらさまざまなものベースにしながらいろんなひとがいろんなものをやっているので、一度入るとなかなか抜けられないのが「アルゼンチン音楽道」というわけだ。そんな道のとっかかりになりやすいのが、このグスタボ・サンタオラージャというひとらしく。

それにしてもこのサントラは今年本当によく聴いた。今年のテーマアルバムのようだった。聴くのはいつも出勤の時が多かった。1曲目からだだっ広い南米大陸がバーンと広がるような、それこそギターがジャーンなオープニングなんだけど、でもとにかくせつなくて、とにかくなんだか暗い。そしてすべからく啓示的というか崇高的。車を運転しているでしょう。聴いていると思わず目を細めて視線を遠くに向けてしまうような(危ないって)崇高さ。吉本ばなな×三砂ちづるの対談本『女子の遺伝子』(この本もよく読み返した)



にも書いてあったけど、南米って生と死そのものの存在がかなり近いようで、その辺がスピリチュアルなトーンに繋がっているのかもしれない。

曲によっては酒場で踊るシーンのような、おちゃらけたものもあるんだけど、でもそれが逆にアルバム全体のトーンの暗さを助長させる感じ。それが逆に今年の自分には本当にピッタリだった。今年は自分自身、まさしく生と死が交差する年だったので、このサントラが自分のサントラにもなったのだと思う。今年コラボさせていただいた南阿蘇の『久永屋』の操さんにもお貸ししたら、とても喜んでいた。この音楽が南阿蘇のあの壮大な風景と溶け合う様はそれはそれは見事だろう。・・・まぁそんな音楽です。

・「HAIR STYLISTICS/DYNAMIC HATE」



なぜか今年最後買った音楽がこれ。というか、今日届いたんだけど。ヘア・スタイリスティックス a.k.a. 中原昌也の2013年のアルバム。いまこれを聴きながらこれを書いてるんだけど、これがくそカッチョ良い。「暴力温泉芸者=Violent Onsen Geisha」はノイズで知られていたけど、これはもう完全にヒップホップ。鎮座ドープネスも参加しているし(このトラックがまたヤバい)。というか、このジャケすんごく好き。「暴力温泉芸者」の頃、自分が大学生の頃から、この人のジャケは好きで気になっていたんだけど

 


その当時の女友達が「・・・趣味悪!!」と大声で言い放ったのを今でも忘れられない。でもこのアルバム、ほんとチープでドープなビートが正真正銘かっこいい。ネバネバとねちっこくて、ズブズブ奥に入っていく様が二日酔いの日にいい感じ。趣味悪が一週廻ってかっこいい世界に突入してる感じ。

それにしてもなぜにいまこのひとなのか。実はこのひとの映画評論の本とか、最近だと人生相談本(これがまた素晴らしい。これも今年よく読み返した)




を読んだのだけれど、なにかどうも気になって調べていたらこのアルバムにあたって、買ってしまった。やっぱり自分にとっては、ひとだとか音楽も映画も本も出会いに尽きる、と思っている。毎日毎日シャワーのように注がれる情報の渦から、どうしてそれをいまのいまチョイスするのかなんて説明もできないけど、そこには「分からなくていいなにか」があるはず。それは成るべくして成っているはず。ひとだって、きっとそうだ。このままもう一生会わないひともいるだろうけど、その一方で必然的に会うひともいる。それはもしかしたら、自分自身の日々の過ごし方、生き方にかかっているのかもしれないと今日の朝、ふと考えた。だからこそ俺は、自分なりに魅力的でいなければならないのだと。

それにしても、なぜにいま中原昌也なのか。自分の店もやればやるほどアンダーグランドな世界に行っている気がして仕方ない。自分では決してそんなつもりはないんだけど。ど真ん中とは言わないが、端の端ではない感じ。そういう意味ではいまの自分の位置をヘア・スタイリスティックス a.k.a. 中原昌也にシンクロさせているのかもしれない。・・・キケンですね。でもアンダーグラウンドでいながらポップな感じって目指すべき場所かもしれない。


・蕎麦屋「森山」が無くなったこと



行きつけの蕎麦屋が無くなってしまう悲しさというのは、もうその人しか分からない。それは歯痛なんかと同じことだ。本人じゃないとその痛さは分からない。「たかが食う場所がひとつ無くなっただけじゃねーか。また探せ」という言葉もあるだろうし、それはそうなんだろうけど、なによりあの空間が無くなってしまったのが大きいのだ。

僕はそれこそ大学時代からすべての友達やら恋人(なんて久々タイプしたけども)そして家族をもすべてこの店に連れて行ったので、それはもうある意味、店ではなくて学校が無くなってしまったかのような感じである。歴史がまるごと無くなってしまった、ような。今からあれに代わる場所を探せ言われても、それは無理な話。愛犬が死んだら、また別の愛犬を飼ってその穴を埋めるしか無いというけれど、少なくとも同じ穴は、無いのだから。

最近出会って飲むようになった若い仲間たちを連れていけなくなったのも痛い。そんな彼らも「もっとあの店に行きたかった、もっと知りたかった」と言っている。そんな店、ほかにあるのかなぁ。「いつまでも あると思うな 蕎麦屋と髪の毛」というフレーズがループ&ループする。


・詩(うた)



今年は年がら年中、ほとんどもうすぐ二歳になる子どもの詩(うた)と過ごした。毎週のように店でも面倒みたし、天草やらの取材にも二人で行ったし、毎日のように店でまかないを作っては一緒に食べたし、常に一緒だった。うちは同じ店で共働きだし、奥さんはマッサージの仕事をしているので、完全に手が塞がるから、どうしても僕が面倒を見る時間が増える。

そもそもはここまで面倒を見るつもりもあんまり無かったのだけど、あるときから逆に「俺みたいなヤツこそ、完全に面倒を見るべきなんじゃないか」と考えた。だって普通のサラリーマンであれば、そんなことはまず無理だ。朝の子どもの寝顔を見て会社に行き、帰って来てはまた寝顔を見て、ようやく休みの日に一日過ごす。たぶん、人によっては普段から面倒を見ていないので、世話だってなかなかうまくいかないだろうと想像する。おむつだって、ご飯を食べさせるのだって、お風呂に入るのだって、一緒に笑い合って遊ぶのだって、ご機嫌を取るのだって、二人でちょっとした旅に出るのだって、何気に時間を過ごすのだって、これすべて、難しい。いや、難しいという言葉は違うな。

一緒に居る時間があればあるだけ、それはよりクリアになっていくというか。たぶんこれは人間関係の基礎なのだと思う。そしてそれは、子どもの世話を真面目に向き合ってするということは、仕事や接客やあらゆる人間関係やら、あらゆるすべてのことに繋がるのでは、ということにだんだん気づく。行うことすべて自分に返ってくる、ということを、徐々に悟っていくこの過程。だからこそ、男として子どもと同じ時間をこんなにも共有できることを、自分はきっと祝福せねばならない。そう、自分はジョン・レノンの、吉本隆明の、伊丹十三の、渡辺俊美の、主夫のなかの主夫たる男たちの末裔なのです。

2015年11月7日土曜日

久永屋

「そのひとの本質が知りたければ、そのひとの隣に居る“友”を見よ」と、昔のひとは言った。

・・・かどうかは知らないが、ひとの本質を知るにあながち間違った術ではないと思う。ほら、よくいるじゃないですか。本人はほんといいやつでみんなから好かれるのに、なぜかいつも連れてる彼女が「うーん」という男が。そこのセンスが合わないとどうも心底信用が・・・って、あれ? それちょっと違う話か。でもまぁとにかく、普段誰と一緒に居て、誰と仕事をして、誰と気が合い笑い合うのか、というのは、そのひとの本質を表すのに無関係ではないはずであり。ということで、今回のモロッコのラグ、ボシャルウィットの展示会でコラボレーションすることになった『久永屋』さんについて記そうと思うわけです。





知っている方も多いかもしれないけど、『久永屋』は熊本・南阿蘇鉄道の長陽駅にある駅舎カフェで、30半ばの久永操さんという方がやられている。カフェ自体は土、日、祝日のみやっており、他の通常の日は資本ケーキ(この店ではシフォンを資本と呼ぶ)をいろんなところで売り歩くという、「サルキ売り」という独特のスタイルを取っている。『久永屋』の印が天上にドデンと記された赤いミニ・クーパーで至る所に出没し(そんな看板背負って走ってたらば、どう考えても悪いことができないと思うんだけど)、保存料・添加物無しのフレッシュふわふわシフォン・・・じゃなかった資本を売り捌くという、かなりアグレッシヴで面白い販売方法だ。

そもそも僕がこの『久永屋』を知ったのは、前職の編集をやっていた時。『九州の食卓』という雑誌の編集をしていた僕は、入ったばかりの時の南阿蘇特集で『久永屋』のシフォンケーキを知り、紹介する記事を書いた。そして実際プラベートでも何回もこのカフェに行き、やがて店主である久永操さんと出会い、その後はたまたま別の仕事でなかなか濃密なインタビューをさせていただき、彼がこれまでやってきたことだとか、その考えだとか、その経緯なんかをしっかりと知るようになったのだった。





実際に行ってみると分かるけども、とにかくこの『久永屋』は本当に特別なカフェだ。それはなにも駅舎を使ったカフェというスタイルを取っているから、そのせいだけじゃない。例えば普通はやはり阿蘇でカフェをやるとなれば、観光客のお客さんが多いのが当たり前だろうが(そして実際多いんだけど)、この店に行くと大抵は地元のおじいさんなんかが普通に幸せそうにコーヒーを啜っている姿を見かける。地元の子どもたちは果てしなく元気にその辺を走り回り、夏ともなれば水遊びをし、地元の見るからに多感な若い子たちはウェイターとしてきびきびと、でも少し恥ずかしげに働いていたりもする。そんななかで観光客としてのお客様たちもとても幸福そうな笑顔を浮かべながら、資本ケーキを食べ、コーヒーなんかを飲んで寛いでいる。それが僕がいつも見てきた『久永屋』の風景だ。とにかく地元のお客さんと観光客のお客さんが見事に自然と溶け合っている感がハンパないのである。またその風景や雰囲気が、南阿蘇の穏やかで心休まる景色や、ユルくて思わず微笑んでしまうようなローカル列車の風情と相まって、他にはあり得ないほど濃密で親密な空気感を演出する。そんな風に、限りなく地元に密着しながらも常に外に開かれた感じ、その二者が見事に溶け合う様というのは、もちろん店主の根幹にある考えが産み出すものなんだろうと僕は勝手に推測する。たぶんそんな空間こそを、店主はこの店で描きたいのだろう、と。こう書くとなんだか簡単なようだけれど、じゃあそんな店が他にありますか、そんなことができている店がありますか、と問われたらば、なかなか見つからないのが本当のところなのではないだろうか。





店内は昭和二年建設されたという駅舎を「出来る限り遺したまま」作られている。それも操さんが自らこつこつこつこつ少しずつ改装したらしい。家具なんかも地元の小学校から譲り受けた古いものもあるそうだ。何よりこの「出来る限り遺したまま」というのがポイントであって、彼は昔アメリカに留学していたことがあるらしく、「かつてあった素晴らしいものを、できるだけありのまま後世に遺し託す」という、古き良きアメリカンスピリットみたいなものをしっかりと根底に潜め持っているようなのである。留学時に見たオレゴンの風景と南阿蘇の風景が被る、なんてことも言っていた気がする。まぁとにかく自分のことで言ってしまえば、もうすでに30後半だった編集時代、そろそろいつかはどうにか独立自律しなきゃなぁ、とぼんやり考えていたその時、彼のそんなこんなの話やら、素晴らしいカフェとその空間を創り上げたその若き資質にひどくオドロキ憧れたわけである。「いやはや、すげぇ漢がいるもんだよなぁ」と深く感心、シットしたのを覚えている。





だからまぁ、正直今回のコラボ企画の源泉はもうその頃からあったのかもしれない。僕は今回のモロッコのラグの展示会で、なんとか『久永屋』の資本ケーキを販売できさえすれば、それで良かった。そして『久永屋』の素晴らしさをみんなで共有したかった。知らない人にはぜひ知って欲しかった。でも彼はそれだけじゃなく、「モロッコといえば塩レモンの発祥地らしいから、オリジナル資本を作ろう」だとか、「南阿蘇にも是非モロッカンラグをはためかせたい」とか(駅舎カフェで今回のラグが実際に手に取れるように置いてある)、もっと大きなことを提案してくれた。そして、まぁ、出来上がったこの『久永屋特製モロッカン資本-塩レモン味-』のなんとウマいこと!! ふわふわ生地のなかにほんのり香るレモン、そしてたまに当るソルトのきりっとしたキック感。上妻画伯が手がけた、淡いタッチながらもしっかり旅風情を感じさせるオリジナルラベルも実に実にいい感じである。お客様はもちろん喜んでいるだろうけど、やっている自分が実は一番嬉しい。




いまの時期、熊本という大きいのか小さいのかよく分からないこの地でも、ほんとにまぁ驚くほどのいろんなイベントやらコラボレーションのようなものや、さまざまな試みが行われている。それ自体はまったくいいことなのだと思う。僕自身もまったくそこに異論はない。でも僕個人のこの店のことでいうと、そこにはできれば最低でも互いのリスペクトが欲しい。いったい誰と、どんな想いの下敷きがあって、何をやるのか。そこだけは明確にしたい。そしてそれは何もコラボレーション云々だけの話ではなくって、そのまんま、うちで取り扱う商品や展示会についての話でもあるんだと思う。ひとつの店の周辺を見れば、その店の本質が垣間みれる・・・というのは、真実でもあるかもしれないが、ある意味ちょっと恐いことでもあると想う。それはまぁとにかく。『久永屋特製モロッカン資本-塩レモン味-』は残り、7(土)、14(土)、15日(日)の販売予定です。ぜひお試しください。



久永屋
〒869-1404
熊本県 阿蘇郡 南阿蘇村 大字河陽3440-4 長陽駅舎内 久永屋
TEL (0967) 67-1107 FAX (0967) 67-1107
土曜、日曜、祭日のみ長陽駅舎内で駅舎カフェ営業中
OPEN 11AM ==> CLOSE 6PM
http://www.hisanagaya.com